4月 13, 2024 20:05 Asia/Tokyo
  • イスラエル政権のシャロン元首相(2001年3月~2006年4月在任)
    イスラエル政権のシャロン元首相(2001年3月~2006年4月在任)

シオニスト政権イスラエル軍は2002年3月末、悪名高い当時のシャロン首相の命令により、パレスチナ領土へ大規模な攻撃を実施しました。ラマッラ、トゥルカルム、カルキリヤ、ナーブルス、ベツレヘム、ジェニンの各地に対するこの攻撃は、パレスチナ領土において行われた1967年以降最大の軍事作戦となりました。

イスラエル軍が行ったこれらの攻撃の目的は、ヨルダン川西岸のパレスチナ人が多く住む重要な街を制圧することにありました。2002年4月3日から17日にかけてのジェニン難民キャンプへの攻撃は、当時のシャロン首相の命令で実施されました。

イスラエル軍は、150台の戦車、装甲兵員輸送車、軍用ヘリコプター、F-16戦闘機のほか、2歩兵大隊、複数の特殊部隊、装甲ブルドーザー12台を投入して激しい市街戦を行い、ジェニン難民キャンプを徹底的に叩きました。この戦闘で、パレスチナ人52人が殉教、イスラエル兵23人が死亡しましたが、国連人権監視団によれば、パレスチナ人殉教者のうち22人は民間人だったということです。

 

イスラエル軍による2002年のジェニン難民キャンプ攻撃で広範に破壊されたパレスチナ人の住居

 

この虐殺に関しては、国際人権団体アムネスティ・インターナショナルも報告で次のように説明しています。

「この戦闘の間、パレスチナ住民、パレスチナ内外のジャーナリスト、キャンプの外にいたその他の人々が、イスラエル軍の軍用ヘリコプターからキャンプ内住居に対し数百発のロケット弾が次々と撃ち込まれるのを目撃した。軍事専門家や各メディアをはじめとしたこの空爆の目撃者たちは、ジェニン難民キャンプの方へ火が広がる様を見て、パレスチナ人が大勢殺害されたと考えた。難民キャンプとその主要病院の周囲は、4月4日から17日にかけて厳重に包囲されており、キャンプ内で何が起きているかを外から知る手段は一切なかった」

 

イスラエル政権により破壊された自宅の傍で嘆くパレスチナ人老女(2002年ジェニン難民キャンプ)

 

アムネスティ・インターナショナルはこの報告でさらに、殺害、パレスチナ人を人間の盾にする、拘束した者に対する拷問および横暴・非人道的・侮辱的な行動、食料や水の入手の困難、医療・人道支援の妨害、財産および都市インフラの大規模な破壊などについても伝えました。

 

上空から見た、イスラエル政権が攻撃した後のジェニン難民キャンプ


 

2002年春に人権センターからジェニン難民キャンプに派遣された政治活動家・独立系ジャーナリストのジェニファー・ローウェンスタイン氏は、自身の報告において、この出来事および、イスラエル政権の虐殺行為を各メディアが無視したことについて、次のように記しています。

 

「私は最初、自分がちゃんと目的地に向かっているかどうかが分からなかった。目の前には、廃墟が広がっていた。印象に残っているのは、ある老人に難民キャンプがどこにあるのか尋ねた時、彼が私の方を見て、廃墟を指差し『キャンプ!』と言ったことだ。その時私はようやく、難民キャンプの破壊がどれほどひどいものだったかを知った。私は、瓦礫でできた山から山へとさまよっていたのだが、自分が何を目にしているのかすら、ほとんど理解できていなかったのだ。地面は泥まみれで、人々は女性や子どもも、持ち物を掘り出そうとしたり、緊急医療チームを助けるために倒壊した建物の周りの道を通れるようにしたり、殉教者の遺体を見つけ出そうとしていた」

「難民キャンプは、死の匂いで満ちていた。それまで、『恐るべき死の匂い』について人々が話しているのを聞いたことはあったが、自分自身がそのような体験をしたことはなかった。私は、人々が集まる(死の匂いのする)所から離れ、病院の裏側を見渡せる一段高い場所に登った。そこでは、(病院)職員が殺された人々の遺体を白いシーツで包み、太陽の当たる地面に横たえていた。その遺体の列の後ろには、遺体から病気が蔓延しないように突貫で掘られた墓穴があった」

「この惨状を引き起こした者たちは、ブルドーザーや銃、爆弾で自分たちが行ったことを誰かに撮影されるのは望んでいなかっただろうが、私と数人の外国人ジャーナリストは、この惨状の痕跡をしっかりと見た。侵略者らは、電気、水、食料、医療品が提供されず誰一人出入りを許されない(難民キャンプの)状況を、外国人に知られたくないと考えていた。彼らは、(自軍の)兵士たちがどのように(パレスチナ人の)家族写真を燃やしたのかを、誰にも知られたくなかった。彼らは、パレスチナ人の持ち物だった鍋やフライパンに排尿・排便し、子どもたちの玩具をずたずたにした。そして、一部のグループはこれらの行為を終えると、笑い声を上げながらアイスクリームを食べた」

「支援団体は、包囲された(難民キャンプの)住民を支援する人道物資を運び込むことができていなかった。難民キャンプの病院およびそこにいた負傷した人々の映像は、一切残されていない。爆撃された建物の映像も、カメラの前で涙をこらえきれなかったニュース解説者の映像も、恐怖で母親にしがみつく子どもの映像も同様だ。反対に、イスラエル政権との連帯が発表されていった。この過剰なまでの映像のなさは、大手メディアがこの惨状を引き起こした者たちと握手しその連帯を発表すべく、エルサレムおよびテルアビブに降り立った際に大勢が決した」

 

ジェニンの件は、こうして忘れられました。これは20年前に起きた出来事ですが、ガザではそれより今日まで、恐ろしい軍事作戦が行われています。世界的植民地主義に対する世界規模の抵抗は、記憶し続けることから始まるのであり、そのためにこそ、このような惨事の記録は何より必要となってくるのです。

 

イスラエル政権により攻撃されインフラが大規模に破壊されたガザ


記憶することは、次の行動の動機となり、世界中からの抗議を呼び起こします。各報道機関が、自国政府への追従のために中央権力の監視という義務を果たせず敗北した場合、それを補っていくのは、私たち人間一人一人の責任となります。ジェニンは詰まるところ、忘れられた戦争の象徴なのです。ジェニンもしくは、忘れられた各犯罪を思い出すことは、ある種の抵抗と言えます。過去と向き合い、現状を変えようとする意志を持つことは、人々による行動および未来へ希望をつなぐための、初めの一歩なのです。

 


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