イランの名声、世界的な栄誉
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イランの名声
それぞれの国は、海域や陸上の国境により分割されており、各国の国民は文化的な境界線によって区分されています。文化遺産は、あらゆる国の人々の歴史的、社会的な印であるとみなされており、それらの保護はその国民の歴史を守ることを意味します。イランは歴史的、文化的、文明的に古い歴史を持っています。多くの専門家によると、最初の人類ははじめイランに住み、村の生活を生み出しました。イランは古い歴史にルーツを持ち、少なくとも5000年前にさかのぼることのできる高い信頼性と純粋さを持つ、数少ない国のひとつです。当時ペルシャと呼ばれたイランの強大な帝国が政治の舞台でまたとない英雄であり、世界の歴史を作る数少ない要素とみなされていた時代から、長い年月が経過しています。このような時代から残る貴重な作品や文書は、人類の文明を知る上で貴重な役割を果たしています。
十字軍戦争は、多大な損害を伴ったものの、ヨーロッパ人にアジアを知らしめ、またヨーロッパの人々に地中海東岸への道を開くことになりました。アッバース朝が滅亡すると、ローマ教皇が派遣する様々な旅団やヨーロッパの船乗りの一部がアジアに向かい、キリスト教の宣教師や商人がイランを訪れるようになりました。13世紀の有名な旅行家で商人のマルコ・ポーロも、イランを経由して中国に向かい、20年後再びイランを通過してヨーロッパに戻っています。イルハン朝のフラグ・ハーンの時代、イラン、特に現在の同国の北西部の町タブリーズは、ヨーロッパとの最も重要な交易地となりました。サファヴィー朝時代の始まり、即ち16世紀からイランの政治的な方針は、自らを全てのイスラム教徒にとっての指導者であるカリフと見なしていた、オスマン帝国の脅威から解放されるために独立する道を選び、シーア派を広めることで、イランの文化的な独立を強化するというものでした。この政治的な選択は、オスマン朝のトルコ人を常に嫌悪していたヨーロッパ人の心をひきつけました。様々な隊商の一行や、政治的、宗教的、経済的な使節団がイランにやって来ており、ポルトガル、スペイン、イギリス、オランダ、ロシア、フランス、イタリアはイランと外交関係を樹立しています。また、イタリアのピエトロ・デッラ・ヴァッレ、イギリスのシャーリー兄弟、ドイツのアダム・オレアリウス、フランスのシャルダンやタヴェルニエ、デュマンなどはイランへの旅行記を記しています。ガージャール朝時代、ヨーロッパとの外交は拡大しました。しかし、残念ながら西側政府はイランの植民地化とその資源の支配をより重視していたのです。多くのヨーロッパ諸国の大使館が、次々にテヘランに開設され、政治関係に加えて、多くの旅行家や商人がイランを訪れました。これらの人々が、5000年以上の人類の文明と歴史の揺籃であるこの地には、アルボルズ山脈やザーグロス山脈、魅惑的なカスピ海、ペルシャ湾の沿岸部の美しい自然や様々な巡礼地の他、地中深くに隠れ、世界の歴史の大半を占める物的、精神的な資本をとなっているそのほかの偉大な資本があることに気づくまでに、それほど時間はかかりませんでした。まず、商人たちはイランの古代遺産という物的な資本に注目を寄せました。それらの貴重な遺産とは、1958年にイラン西部ノグデ近郊のハサンルーの丘から見つかった、6千年前の大きな金の杯、イラン北部ルードバールで出土した、3千年以上前の翼の付いた2頭の牛を精巧に描いた金の杯などとなっています。こうして、イランの文化遺産に対する略奪の物語が始まりました。そのひとつは、ギャンジ・シャーイェステガーンと呼ばれる一連の遺産です。これらは、19世紀末から20世紀初頭のガージャール朝の王、モザッファロッディーン・シャーの時代に、イラン西部のネハーヴァンドで発見されました。これらの財宝は、紀元前3世紀のアルサケス朝パルティア時代、及びサーサーン朝時代に属する、ほかに例のない彫像や様々な工芸品であり、金塊や銀塊という形でイラン国外に持ち出されたのです。19世紀のはじめ、ガージャール朝が成立したのと同じ時期、イギリスの考古学者ウィリアム・ケネト・ロフトゥスなどをはじめとするヨーロッパの旅行者が、イランの文化に触れることになります。ロフトゥスは初めて、古代はスーサとして知られていた、イラン南西部のシューシュの発掘調査を開始し、一部の貴重な遺物をイギリスに持ち帰りました。その後、フランスの考古学者マルセル・デウラフォイはガージャール朝の王、ナーセロッディーン・シャーの許可を得てシューシュを発掘し、その後もそのほかのフランス人が、イラン各地で発掘調査に当たっています。デウラフォイは、ジャック・ド・モルガンなどの人物がシューシュで発掘した跡において、1200人近い作業員を動員し、1年半ごとに1度、イランの古代の遺物をフランスに持ち帰っていました。ド・モルガンは後に、イランの発掘品を展示する見本市をフランス・パリで開催しました。ここで展示された発掘品の中には、世界に誇るハンムラビ法典があり、これは現在ルーブル美術館に、最も価値の高い展示品のひとつとして収蔵されています。フランス人はなおもイランの文化遺産の発掘と、発掘品のフランスへの移送を続けました。その後イギリス、アメリカがより広範な形で略奪を行い、イランの文化的な財産の略奪という悲劇の物語が続くことになります。こうした略奪はパフラヴィー朝政権の間に頂点に達しました。しかし、1979年のイラン・イスラム革命の勝利後、文化財に関する法律が制定され、略奪はほぼなくなりました。イランのイスラム共和制の成立当初から、革命評議会は商業目的での発掘活動の禁止を宣言し、政府に対して許可の取得により学術的な発掘調査を行ってよいとしました。このような法律の制定により、イランにおける外国の発掘団体の活動は終了し、イランの文化遺産賭される遺物の国外への持ち出しは絶対的に禁止されました。しかし、現在も外国の商業関係者はこれらの文化遺産に欲望の目を向けており、その一部は欲深い人物を利用して、しばしば貴重な文化遺産を略奪しています。しかし、現代では別の形でイランの文明遺産の略奪が行われており、これは注目すべき考える必要がある問題です。イランの精神的、文化的なこれらの遺産は、文化の豊かさを示し、またイランのアイデンティティを証明するものでもあります。これらは欲望に満ちた人々の注目を寄せ集めています。残念ながら、かなり前から一部の国がイランの文化遺産を自分たちの国のものとして偽装しようとしています。疑いのない頼性ある証拠や、歴史的な資料、世界の優れた研究者の調査に基づき、それらの文化遺産がイランのものであることに疑いは存在しません。広大な領域であるイランに生きた詩人や思想家、そして彼らの作品は、彼らの出自がイランであることの真実性を示しており、現在彼らはイラン国外に埋葬されています。イランの人々のかけがえのない宝とみなされているこれらの栄誉を偽造したり、占有したりすることはできないのです。
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