May 31, 2020 11:49 Asia/Tokyo
  • アブーターレブ・キャリーム・カーシャーニー
    アブーターレブ・キャリーム・カーシャーニー

今回はインドに移住したイランの人々についてお話しすることにしましょう。

これまでの数回にわたり、アブーターレブ・キャリームという、サファヴィー朝時代のイランの詩人で、ペルシャ語詩のインド様式の第一人者とみなされている人物についてお話しました。また、キャリームがインドに移住したことについて、一通り触れました。インドに移住したイラン人の数は、歴史上の一時代においては非常に多かったのです。

前回まで、インド亜大陸は、経済、文化、政治による移民を受け入れていました。政治的に、インドの政治体制は1000年にわたり、移住によって形成され、そのほとんどは土着でない、移住してきた人物によって運営されてきました。

移住者の中で、イラン人は、文化的、社会的、歴史的な両国の深いつながりにより、特別な地位を得ていました。最初の移住者のグループはゾロアスター教徒でした。その後、イスラムのイラン流入により、イスラム教徒がインドに移住しました。そして、モンゴルのイラン進入後、特にイラン北東部と中央アジアを含めたホラーサーン地方から、ペルシャ語を使う多くの学者や作家、芸術家や職人がインドに移住しました。この流れは100年間続きました。その後、サファヴィー朝時代、より多くの人々が、インドに移住しました。こういった移住者は、学者や神秘主義思想家、影響力ある要人などとされています。

インドの王は、文学や芸術を愛しており、彼ら自身も芸術活動を行っていまいsた。また、芸術を育てていました。インドの王たちの、書道の技術に対する特別な注目により、多くのイラン人の書道家は、インドに住み着きました。イランで13世紀に生まれたナスターリーク書体は、イランの移住者によってインドで広まりました。インド・ムガル朝の王たちは、書道芸術を歓迎し、彼らのいずれも、演説文を記す上で、イラン人の書道家を選びました。

ムガル朝の3代目皇帝アクバルは、ペルシャ語の本を記し、装飾する上で、大変多くの書道家と挿絵家を受け入れました。彼ら全員によい給与を与え、様々な折に、褒美を受け取りました。そのほか、演奏家や絵師などの芸術家も、インドの王の宮廷で注目を集めていたのです。

ムガル朝の王の砦の壁に記されたナスターリーク体

歴史資料によれば、デリーやデカン高原の宮廷に住み着いた一部のイラン人は、当時、医師として奉仕し、名声を得ていました。まさにこの移住によって、イスラム医学がインドやパキスタンに持ち込まれ、この地で更なる医学的発展を遂げたのです。ムガル朝の王たちは、多くのイラン人医師を用いました。歴史家フェレシュテが記した価値ある書は、(熟練したイラン人医師について)次のように記しています。

「ハキーム・エイノルモルク・ギーラーニーは、アクバルの宮廷における医師であり、治療に際して奇跡を起こしていた」

イスラムのインド流入により、イスラム神秘主義もインドに根付きました。神秘主義は11世紀ごろ、現在のパキスタン・ムルタンの周辺で発展したと考えられます。この地に住み着くようになった最初の神秘主義者は、イラン南部・ファールス州出身のサフィーオッディーン・カーゼルーニーでした。

現代イランの歴史家、トウフィーグ・ソブハーニーは次のように語っています。

「1025年にガズナ朝の王、マフムードがムルタンを平定したことで、当時この地域の名声が広まり、神秘主義者は弟子を獲得し、布教活動を行うためにこの地にやってきた。インドではハナフィー派のイスラムが広まっており、神秘主義者の多くは、イスラム教徒や人々を啓蒙する上での天啓とみなしていた。インドの神秘主義者は、その啓示を精神的な幸福を与えるものであり、政治体制ではなく、精神的な体制が彼らに道を示すと考えていた」

イランの神秘主義は、インドの町や村にて発展していました。その影響は、村にも町のように及んでいたほどでした。多くの神秘主義の修行場が存在し、これらは政治的、社会的、経済的に大きな影響を持っていたのです。神秘主義者の指導者は、イスラムに関して活動するだけでなく、布教活動にもつとめていました。彼らはソブハーニーが「ムガル朝の王族をイスラムに導いた」と語るほど、影響力を持っていたのです。

イランの名声、世界的な栄誉は、IRIBラジオ日本語にてお伝えしています。この番組では、インドに渡ったイランの移住者についてお話しています。

貴重な著作、『覆い隠されたものの発見』を記した11世紀の神秘主義者、ホジュヴィーリーは、インドに移住した神秘主義者の一人です。彼は1039年ごろ、現在のパキスタンのラホールに移住し、ペルシャ語によるこの作品をインドで記しました。その後、ほかの神秘主義者もインドに渡り、イランの神秘主義思想の教育を幅広く行いました。彼らは多くの人を自分の教えにいざないました。

イランにおけるモンゴルの信仰と破壊の後、多くの神秘主義者がインドに赴き、イランの神秘主義思想の布教活動の中で、自身の思想を伝えていました。モイーヌッディーン・チシュティーやネザーモッディーン・オウリヤーはインドでペルシャ語とイスラムを広めた人物の一部です。彼らは、インドの人々とふれあい、宣教活動を行いました。彼らの思想の信者はインド各地を旅し、人々にイスラムを伝え、またしばしば本を記していました。

1383年、イランが再びティムールによって侵略されたとき、イラン西部・ハメダーンに住んでいた700人の預言者の子孫、セイエドがインド北部のカシミール地方に移住しました。ティムールは、ハメダーンの中で歴史的な影響力を持っていたセイエドたちを滅ぼそうとしていたといわれています。このため、セイエドたちは神秘主義者としてインドに移住しました。彼らの指導者はこの番組でも取り上げたことのあるアリー・ハメダーニーでした。

イランの神秘主義がインドで拡大し、ソフラヴァルディー教団やチシュティー教団など、重要な宗派が形成され、魅力ある中心地となったことで、神秘主義の信者たちがインドに導かれるようになりました。一部の神秘主義者は個人的に、一部は集団でインドに移住し、そのほかの一部の人物は、インドの宮廷人に招聘されたのです。

歴史では、15世紀のインド・デカン高原のバフマニー朝の王、アフマド・シャーは、イランの神秘主義者シャー・ネエマトッラー・ヴァリーの息子を、イラン南東部ケルマーン州のマーハーンからインドに招聘し、また、ネエマトッラー・ヴァリーの孫、ミール・ヌーロッラーも、インドに送られました。歴史家のフェレシュテは、これに関して、次のように記しています。「一部の人々は、ミール・ヌーロッラーがイランに帰り、また一部の人は帰ることができずにデカン高原で死に、その地に葬られたと語っている」

 

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