イラン南西部にある世界最古の大学:ゴンディシャープール
(last modified Sat, 07 Jun 2025 12:23:04 GMT )
6月 07, 2025 21:23 Asia/Tokyo
  • 南西部フーゼスターン州中心部にある世界最古の大学・ゴンディシャープールの跡地
    南西部フーゼスターン州中心部にある世界最古の大学・ゴンディシャープールの跡地

現在のイラン南西部フーゼスターン州デズフールから南東に17キロ、同州北部の平原の中に、かつては知識と英知の中心地として栄えた都市、ゴンディシャープール (ジョンディシャプール) の古代遺跡があります。

【ParsTodayイラン】ゴンディシャープールは、サーサーン朝のシャープール1世の命により、西暦3世紀に「ヴェヘンディ・シャープール」(「アンティオキアよりも優れた」という意味)の名で築かれました。ちなみに、アンティオキアとは、セレウコス朝のセレウコス1世が父アンティオコスを記念して建設し、各地に存在したギリシア語の都市を意味します。

シャープール1世は西暦260年、現在のトルコ南部エデッサでの戦いで、ローマ皇帝ヴァレリアヌス率いるローマ軍を破りました。この戦いで、当時のローマ帝国の主要都市の一つであったアンティオキアは大きな被害を受け、ヴァレリアヌスとその兵士の多くはサーサーン朝ペルシャ軍に捕らえられました。

シャープール1世はこの戦いで勝利を収めた後、アンティオキアの街の美しさに魅了され、自らが治めるイランに同じような都市を建設することを決意しました。彼はローマ建築に精通したローマ人捕虜を雇用し、都市建設のためにシャープールの軍隊が集結していた地域・ニーラート(ゴンディシャープールの旧名)を選びました。そしてその場所に、紀元前5世紀のギリシャの科学者・ヒッポダモスの建築様式に基づいた都市を築いたのです。

この様式による都市には幅の広いまっすぐな大通り、交差点、平行する路地、そして通常は1階から3階建ての建物が存在していました。

こうして建設された街は、チェス盤のように広がっていました。その全景はフーゼスターン平原に削り出された見事な長方形で、交差するいくつもの街路が空間と躍動による生き生きとした構造を形成していたのです。

ゴンディシャープールは、数世紀にわたり古代フーゼスターンの7つの主要都市の1つとして位置づけられ、その名声は戦略的な立地条件だけが理由ではなく、イラン、ギリシャ、インド、ローマの学問の伝統が融合されたことにもよるものでした。

この都市は当初、シャープール1世によって軍事要塞として築かれましたが、肥沃な土地と壮麗な庭園を擁することから、急速に科学・医療の中心地へと発展しました。実際にシャープール1世は、多数のギリシャ語の医学書をサーサーン朝宮廷の学術言語であるパフラヴィー語に翻訳するよう命じています。

しかし、ゴンディシャープールの隆盛が最高潮に達したのは、アヌーシールワーン (「不死の魂をもつ者」の意)の号を持つホスロー1世(在位 531~579) の治世でした。この時代には巨大な病院が建設され、この都市の医学校はサーサーン朝における治癒と知識の聖地として知られるようになったのです。中世の学者らは、ゴンディシャープールを著名な医学・大学学問の中心地と称していました。

 

世界最古の大学としてのゴンディシャープール大学

ゴンディーシャープールは、人類史上初の正式な大学と称されるにふさわしい場所で、ギリシャのヒポクラテス医学が初めて学問的に教えられた場所となっています。この街は古代世界各地から、ギリシャ語文献のシリア語訳をもたらしたネストリウス派キリスト教徒から、インドの数学者、ギリシャの哲学者までに至る学者や学生らを受け入れました。

またこの大学には、インド、イラン、シリア、ギリシャの知識を融合させた統合医学部が設立されました。著名なギリシャの哲学者プラトンやアリストテレスの著作もパフラヴィー語に翻訳され、ホスロー1世の命により教材に取り入れられています。

歴史家によれば、この都市の創設者であるシャープール1世は、大規模な翻訳プロジェクトを命じ、多数のギリシャの医学書をササン朝宮廷の科学言語であるパフラヴィー語に翻訳させたということです。

時を経て、ゴンディシャープール図書館は思想の多様性の象徴となりました。ここに収蔵・研究された書物の中には、『ホダイ・ナーメ(列王記)』、インドの説話集『カリラとディムナ』、「千夜一夜物語」の元祖となった『千物語』、『七賢人物語』、古代ペルシャの恋愛小説『ヴィースとラーミーン』、『儀式の書』、『王冠の書』といった伝説的な著作が含まれていました。

この大学においては、イランの医師らはギリシャの哲学者、シリア語圏の学者、インドの数学者たちと共同で活動していました。一説によれば、この都市が後にイラク・バグダッドの有名な「知恵の館」として栄えることになる知的基盤を打ち立てた、とも言われています。また、記録に残る人類史上初めて、ヒポクラテス医学が大学という場で正式に教育されたのもゴンディシャープールでした。しかし、その学術的成果は医学だけにとどまりませんでした。

塀に囲まれた敷地内には香水の生産工房、繊維工房、さらには王室の製造工場が栄え、近隣や遠方からエリートの医師や学者がやって来て、ゴンディシャプールは繁栄しました。

 

経済と文化の拠点として

ゴンディシャープールは学術の中心地であっただけでなく、サーサーン朝最後の王ヤズデギルド3世の貨幣の鋳造もこの都市において、加えて現在のイラン南東部に当たるズィースターン地方とともに行われていました。さらには香水工房、繊維産業、王立工場も栄えていました。

 

衰退と永続的な遺産

9世紀から10世紀にかけて、現在のイラク首都に当たるバグダッドが台頭するにつれ、ゴンディシャープールは徐々に注目されなくなり、その図書館、講堂、庭園からは人々の姿が消え、静まり返りました。

しかし、ゴンディシャープールの偉大さはサーサーン朝の滅亡とともに終わることはありませんでした。その壮大な遺産はイスラム時代まで深く受け継がれ、7~9世紀に活躍したペルシア人またはシリア人の東方キリスト教の医師の一族・ブフティーシュ家は、数世代にもわたってこの学術都市の知的支柱であり続けたのです。今日、イラン南西部を流れるカールーン川のほとりには、ゴンディシャープールの遺構と色褪せた遺跡が点在するのみですが、これらは今なお遠い過去の栄光を物語っています。

 


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