イラン第2代最高指導者・ハーメネイー師の半生
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かつてのハーメネイー師
今から36年前の1989年6月4日、イラン・イスラム革命を率い初代最高指導者を務めたホメイニー師が死去しました。そして、この日は第2代最高指導者として現在のハーメネイー師が就任した日でもあります。
【ParsTodayイラン】ホメイニー師死去のニュースが発表された後、最高指導者選出を担う専門家会議のメンバーたちがテヘランに召集されました。1989年6月4日の朝の会議で、ホメイニー師が生前に専門家会議に託した遺言が当時大統領だったハーメネイー師によって読み上げられました。そして、午後の会議で、74名の出席者のうち60名の票を得て、ハーメネイー師が第2代最高指導者として選ばれました。
この記事では、そのハーメネイー師の半生を振り返ります。
誕生
ハーメネイー師、本名セイエド・アリー・ハーメネイーは、父ハージ・セイエド・ジャヴァード・ホセイニー・ハーメネイーの次男として、1939年4月18日に北東部マシュハドで生まれました。

学問の道
ハーメネイー師は中学校を卒業後、神学校に進み、父親や当時の教師たちのもとで文学や初歩的な学問を学びました。彼は18歳でイスラム法学「フィクフ」「ウスール」の高等課程に進み、その後、イラクのナジャフに渡り、当時ナジャフで教鞭をとっていたホメイニー師をはじめとする学者たちの授業に参加しました。ナジャフで学び続ける中で、彼はその学問環境を好み、留まりたい旨を父親に告げましたが、父親は反対しました。彼はやむなくマシュハドに戻り、1958年から1964年まで中部ゴムの神学校で学びました。同年、父親が白内障で片目を失明したことを知り、彼は学び続けるか父親のもとに戻るかを迷った末、最終的にはマシュハドで父親を看護することを決心しました。

結婚
ハーメネイー師は1964年の初秋に、ホジャステという女性と結婚。その後、6人の子供(2人の娘と4人の息子)を授かりました。

政治活動
ハーメネイー師は、自らを「ホメイニー師から法学、政治学、革命を学んだ弟子」と語っており、1961年から当時のパフラヴィー朝皇帝モハンマド・レザー・シャーのアメリカ主義的で反イスラム的な政策に反対するホメイニー師の革命運動を支持していました。彼は16年間、数多くの困難と拷問、追放、投獄に耐えながら闘い続け、その過程で一切の恐れを感じることはありませんでした。彼はこの間、6回逮捕され、その度に拷問を受けました。
追放
1976年末、シャー政権はハーメネイー師を逮捕し、イラン南東部のイーラーンシャフルに3年間追放しました。1977年中頃、イラン全土で革命的な抗議運動が高まったことで釈放された後、マシュハドに戻り、シャー政権に対する民衆の闘争の最前線に立ちました。そして数年の闘争と抵抗の末、イラン革命は成功を収め、シャー政権は崩壊し、イラン・イスラム共和国が成立しました。

革命の前夜
イラン革命が勝利に近づく中、ホメイニー師がパリからテヘランに戻る前に、議会にあたるイスラム革命評議会が設立され、ハーメネイー師もそのメンバーに選ばれました。

革命後
革命後も、ハーメネイー師はイスラム革命の目標に向けた活動を続けました。彼が行った重要な活動は以下の通りです。
1979年:イラン・イスラム共和党の設立
1980年:国防軍需次官
1980年:革命防衛隊総長
1980年:テヘランの金曜礼拝導師
1980年:ホメイニー師の代理として国防最高評議会に出席
1980年:イラン国会にテヘラン選挙区から選出
1981年:イラン・イラク戦争が始まり、戦線に参加
1981年:反体制派テロリストにより暗殺未遂事件
1981年:ラジャーイー前大統領暗殺を受け、大統領に選出
最高指導者に選出
イランの最高指導者は憲法に基づいて「専門家会議」によって選ばれることになっていました。ホメイニー師が死去した1989年6月4日、ハーメネイー師は、会議の出席者74名のうち60名以上の支持を受けて、第2代最高指導者に選ばれました。
イスラム世界の旗手
ハーメネイー師の最高指導者選出を受けて、政府の高官、様々な機関、ホメイニー師の遺族、宗教指導者、学者たち、そして多くの民衆が彼を支持し、イランがイスラム世界の指導者であることを世界に示しました。

ホメイニー師の息子の言葉
ホメイニー師の息子であるセイエド・アフマド・ホメイニー師は、ハーメネイー師が最高指導者に選ばれた後、祝辞を送り、「イマーム(=ホメイニー師)は何度もあなたを最適な指導者だとおっしゃっていました。私たちはイマームの家族として、この選択に感謝します」と述べました。

ホメイニー師の道を引き継ぐ
ハーメネイー師は最高指導者選出後、ホメイニー師を「革命という木の根」と呼び、「我々はホメイニー師の道を引き継いで進んでいく」と抱負を語りました。