ラフサンジャーニー師、最高指導者の戦友(音声)
(last modified Tue, 10 Jan 2017 09:03:43 GMT )
1月 10, 2017 18:03 Asia/Tokyo

人間が革命を起こそうとするには、その肉体や精神、思考を自らの目指す理念に捧げきる必要があります。

ハーシェミー・ラフサンジャーニー師は、人生の最後の瞬間まで革命のための活動や業務に忙殺されていました。彼は常に、革命をどのように次の世代に継承させるかということを考えていたのです。昨年の夏に、彼はイラン全国の教師たちに向かい、次のように述べています。

「新しい世代が革命的でありたいと望むならば、イスラムを知り、倫理的でありまた知識を伴っていなければならない」

8日日曜午後7時30分、報道各社はイスラム革命の指導者ホメイニー師の旧友、かつ現在のイスラム革命最高指導者ハーメネイー師とともに戦った協力者だったラフサンジャーニー師が逝去したと報じました。

ハーメネイー師のお悔やみのメッセージが発表された後、深い悲しみが広がりました。

「旧友であり、イスラム闘争時代の同志であり、イスラム共和国時代の長年の近しい協力者であったハージシェイフ・アクバル・ハーシェミーラフサンジャーニー師の突然の死の知らせを受け取ったことは遺憾に堪えない。

59年間、共に協力してきた同志を失い、まことに哀惜の念に耐えない。

この数十年、我々は多くの困難や窮地に直面し、また同じ志を持って、多くの段階において互いに共通の道において努力や忍耐を強いられてきた。

その中で彼の豊かな知識、類稀な親密さは、彼と協力してきた全ての人々、とくに私にとって確かな拠り所とされる。

ハーシェミー師の喪失により、私は彼ほど、このような長期に渡る共通の経験を、この歴史を作る時代の浮き沈みの中で共にしてきた人物を知らない。現在この老齢の闘争家は、様々な努力や活動の経歴を持って神の御前に立っており、これは、イスラム共和国の責任者、我々すべてが辿るべき運命である」

ラフサンジャーニー師は、1934年8月4日、イラン南東部ケルマーン州ラフサンジャーン行政区バフラマーン村の、比較的裕福な家庭に生まれました。彼は、ミールザー・アリー・ハーシェミー・バフラマーニー氏と、マーフ・ビービー・サファリヤーンの間に生まれた9人の子供の1人でした。

彼は、14歳でテヘラン南方の聖地ゴムに赴いて宗教学を学び、宗教権威者の地位を得ました。ゴムへの移住は、彼の一生を大きく変えることになります。というのは、まさにこの地において、彼はイスラム革命の創始者ホメイニー師に出会い、自由を求める理念に親しむことになったからです。

 

ホメイニー師の追放により、当時のパフラヴィー国王との戦いや、国内におけるホメイニー師の代表を務める上でのラフサンジャーニー師の役割は、益々重要性を増してきました。彼は、1960年代から政治活動を開始し、1979年のイスラム革命前の時代にホメイニー師と近しくなりました。また、革命前およびホメイニー師の運動の時期には、革命評議会の活動的なメンバーの1人であり、またイスラム革命の勝利により常に革命とともにありました。

 

ラフサンジャーニー師は、聖なる防衛、即ちイラン・イラク戦争の時代には長期間にわたってイラン軍の総司令官代理を務めました。

この戦争の厳しい時代において、ラフサンジャーニー師は戦線にも姿を見せることで戦士たちに抵抗への意欲を持たせ、また司令官らにも正しい措置を講じるべく支援しました。また、アメリカをはじめとする西側諸国による対イラン制裁が最高潮に達していた時期の戦局の管理は、決して容易なことではありませんでした。

「ペルシャ湾の安全は、全員のものであるべきだ。そうでなければ、誰のものでもあってはならない」

ラフサンジャーニー師は、2期にわたってイラン大統領に選出され、1997年まで大統領をつとめました。最高指導者は常に、政府において彼を支持し、国が戦後の困難な状況を乗り越えられるようにしました。

ラフサンジャーニー師は、1997年、公益評議会議長に就任し、この責務を死去するまでつとめていました。また専門家会議にも議員、そして理事会のメンバーとして参加しました。さらに2007年から2011年まで、専門家会議の議長をつとめました。

ラフサンジャーニー師と最高指導者は、両者の間の友好関係について語っています。

ラフサンジャーニー師のとった方針により、彼の名前は革命と共に語られるようになりました。

今や革命の重鎮に先立たれました。彼は王の圧制に対して闘った最初の世代であり、この危険に満ち溢れた、名誉ある道において奮闘してきた人々の一人でした。彼は常に未来、イランの未来に目を向けていました。

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