アラブの自尊心;ナスロッラー師の生誕からISIS・イスラエルとの戦いまで【写真あり】
(last modified Mon, 30 Sep 2024 09:07:47 GMT )
9月 30, 2024 18:07 Asia/Tokyo
  • アラブの自尊心;ナスロッラー師の生誕からISIS・イスラエルとの戦いまで【写真あり】
    アラブの自尊心;ナスロッラー師の生誕からISIS・イスラエルとの戦いまで【写真あり】

レバノンのイスラム抵抗組織ヒズボッラーの指導者だったセイエド・ハサン・ナスロッラー事務局長が去る27日金曜、自国とパレスチナの解放を目指し生涯をかけて戦い抜いた末、首都ベイルート郊外にてシオニスト政権イスラエルの残忍な攻撃を受け殉教しました。

1982年のヒズボッラーの創設者の一人であるナスロッラー師は、1992年にイスラエル政権によりムーサヴィー第2代事務局長が殉教した後、その後任に選出され、ヒズボッラー第3代事務局長となりました。

ヒズボッラーはナスロッラー師の在任中に地域の一大勢力となり、数多くの作戦を実施した後、西暦2000年にはレバノンからイスラエルを撤退させることに成功しました。イラン・イスラム革命最高指導者ハーメネイー師はナスロッラー師を、偉大なる聖戦士かつ抵抗運動の旗手だとしています。

パールストゥディのこの記事では、ナスロッラー師の生涯を振り返っていきます;

 

幼少期と青年期のナスロッラー師


出自と家族

レバノンおよび世界の著名な人物の一人であるセイエド・ハサン・ナスロッラー師は、1960年8月31日、レバノン首都ベイルート東部地区で、9人兄弟の長男としてこの世に生を受けました。父・セイエド・アブドゥルカリーム氏と母・ナフディーア・サフィーウッディーン氏は、元々はレバノン南部ティルス(現在のスール)郊外にあるバズーリエ村出身で、後にベイルートに移住しています。

 

青年期のナスロッラー師


ナスロッラー師は1975年4月、家族とともに父親の故郷バズーリエ村に移住し、スールで高等学校に通いました。そして16歳のとき、同市の金曜礼拝の導師だった故セイエド・モハンマドバーゲル・サドル師(イラクの旧バース政権に反対していた法学者・思想家)の友人の一人であるセイエド・モハンマド・ガラヴィー師の勧めにより、宗教学を学ぶためにイラク・ナジャフに移住しました。ガラヴィー師は書簡でナスロッラー師を故サドル師に紹介し、サドル師はナスロッラー師のニーズ確保や学業面の監督役として、セイエド・アッバース・ムーサヴィー師を任命しました。

ナスロッラー師は1978年、ナジャフに2年間滞在し神学校の予備コースを修了したものの、イラクの旧バアス政権の圧力を受けたためレバノンに戻りました。1979年にはレバノン東部バールベックにイマーム・ムンタゼル神学校が設立されたため、彼は神学過程を継続し、同時に教育活動を開始しました。そして、1978年に18歳でファーティマ・ヤースィーン夫人と結婚し、4人の息子と1人の娘をもうけています。

彼の最初の子供であるセイエド・ハーディー氏は1997年、18歳の時にレバノン南部でイスラエル兵との戦闘中に殉教しました。

 

殉教した長男セイエド・ハーディー氏と


社会的・政治的な活動

ナスロッラー師は、若い頃から政治活動を始めました。彼は、イスラム預言者一門に従う学者・思想家の一人で若年期にイランからレバノンに移住したイマーム・ムーサー・サドル師に興味を持っていたため、同師の仲間に加わりました。サドル師は、1975年結成のレバノン・シーア派世俗政党・アマル運動および同国シーア派最高会議の創設者で、諸宗教や宗派の共存に関する学説提唱者の一人でした。ナスロッラー師は兄弟のセイエド・ホセイン氏とともにバズーリエ村のアマル運動の責任者となりました。アマル運動とは、レバノン国民の防衛及び、イスラエル政権との軍事的対決を目的に結成された運動です。

ナスロッラー師は、1982年にイスラエル政権がレバノンを攻撃した後、別の闘争派聖職者グループとともにアマル運動から分離し、より積極的な闘争を目的とした反シオニストの解放運動としてレバノンに抵抗組織・ヒズボッラー(アラビア語で「神の党」の意)を創設しました。

ナスロッラー師は1982年から1992年までの間、ヒズボッラーでの活動に集中しました。彼はこの組織の中央評議会の一員であることに加えて、イスラエル政権によるレバノン占領への対抗を目的に抵抗軍の態勢準備と軍事的中枢の創設を担当しました。しばらくの間、彼はベイルートのヒズボッラー指導者、イブラーヒーム・アミーン・アル・サイード師の副官を務め、また一定期間はヒズボッラーの執行副部長も務めました。

レバノンのイスラム抵抗組織ヒズボッラーの事務局長として

ナスロッラー師は、1992年2月16日に発生したイスラエル政権側因子によりヒズボッラー第2代事務局長セイエド・アッバース・ムーサヴィー師が殉教させられたことを受けて、ヒズボッラー決定評議会の全会一致により、32歳でこの組織の事務局長に選出されました。

 

殉教したムーサヴーィ第2代ヒズボッラー事務局長とともに


ヒズボッラーはナスロッラー事務局長の在任期間中、イスラエル政権、複数のテロ組織およびタクフィール派集団に対して多くの勝利を収めました。その中で最も重要なものは、2000年のレバノン南部の解放、2006年の33日間戦争、そしてイラン・イスラム革命防衛隊ゴッヅ部隊の故ソレイマーニー司令官との協力しての、イラクとシリアからのテロ組織ISIS偽政権の殲滅でした。このため彼は、名前にあるイスラム預言者一門の末裔の敬称に基づき、抵抗のセイエドと呼ばれています。

ナスロッラー師はさらに、イスラエル政権に対する抵抗と度重なる勝利により、今世紀のアラブ・イスラム世界で最も支持される人物または指導者と評されました。

 

イラン最高指導者ハーメネイー師とともに

 

イランイスラム革命防衛隊ゴッヅ部隊の故ソレイマーニー司令官とともに


数々の暗殺未遂

ナスロッラー師はヒズボッラー事務局長在任中に、何度もイスラエル政権による暗殺の脅威にさらされました。未遂に終わった暗殺計画には、以下のようなものがあります;

食物に毒が混入された毒殺計画 (2004年)

イスラエル軍機による同師居住の建物の爆撃 (2006年)

イスラエル軍機による同師がいると思われる建物の爆撃(2011年)

この偉大なる聖戦士は最終的に去る27日金曜夜、イスラエル政権によるベイルート南部近郊ダヒヤ地区へのテロ攻撃で殉教を遂げました。 

 

 


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