ボスニア・ヘルツェゴビナでのイスラム教徒殺害:スレブレニツァで垣間見えた西側の意思
国連安全保障理事会は1993年の春、当時紛争下にあったボスニア・ヘルツェゴビナのスレブレニツァが国連軍の管理する非武装の「安全地帯」になると宣言しました。しかし、後に戦争犯罪、人道に反する罪、集団虐殺(ジェノサイド)で有罪判決を受けることになるボスニア・セルビア人共和国軍のムラディッチ参謀総長が指揮する部隊は、国連管理下にあったこの地域を侵犯しました。スレブレニツァの住民約1万5000人は周囲の山に逃げたものの、同軍に見つかった数千人が虐殺され、その遺体は後日ボスニア・ヘルツェゴビナ国内の570カ所で発見されることとなりました。
【ParsToday国際】第一次世界大戦や第二次世界大戦に関連した出来事や事件、そしてヨーロッパ諸国間の様々な紛争という歴史の変遷は、1990年代にバルカン地域で戦争を引き起こしました。ソビエト連邦とユーゴスラビアの崩壊、そして冷戦とその継続も、そのような地域動向および世界的状況の一部と見なされますが、それらはバルカン地域の住民、中でもボスニア・ヘルツェゴビナやコソボの人々の生活に、特に大きな影響をおよぼしました。
この時期、旧ユーゴスラビアから諸国が次々と独立を宣言しましたが、これは結果的にボスニア・ヘルツェゴビナの問題にそのまま結び付き、この地域で紛争が勃発し激しい戦闘や残忍な殺戮が行われることとなりました。
ボスニアの都市や村では、この紛争から数十年を経た現在でも、その痕跡を見ることができます。街々の壁に残る銃撃の跡、都市および農村のいたるところで見られる道路間の区画を全て埋め尽くすほどの大きな墓地、サラエボの繁華街で殺された子どもを含む大勢の人々のための慰霊碑などは、この紛争の記憶を歴史から消し去ることのできないものにしています。
サラエボ市は紛争の間、1425日間にわたり完全封鎖され、近代戦争で起きた一国の首都の封鎖の中でも最長期間となったほか、市内で行われた40カ月以上にわたる戦闘により、市民約1万4000人が死亡しました。
この紛争は非常に広い範囲に及び、スレブレニツァで起きたイスラム教徒住民虐殺は、特に注目される事件として挙げられます。この出来事は、第二次世界大戦後にヨーロッパで起きた最大の虐殺事件とも言われています。
そして、このような事件の原因および法的・政治的側面については、ユーゴスラビアの背景や以前から内部に抱えていた問題の他にも、外的要因として、国際機関の職務怠慢もしくは黙認が挙げられるのです。
これらの犯罪で最も際立った役割を果たしたのは、ユーゴスラビアから独立を宣言したボスニア・セルビア人共和国のカラジッチ初代大統領と同共和国軍のムラディッチ参謀総長です。この両名は、セルビアの街や村で数年の潜伏生活を送った後、2008年と2011年にそれぞれ逮捕・勾留されました。
カラジッチ元大統領は2016年、オランダ・ハーグに設置された旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷で集団虐殺と人道に反する罪で禁固40年の1審判決判決を受けました。さらに、後の上訴審ではさらに重い終身刑が下され、刑が確定しました。
「ボスニアの虐殺者」と呼ばれたムラディッチ元参謀総長も、1995年7月11日に行ったボスニア人8300人の虐殺の罪により2017年、終身刑を言い渡され、2021年に刑が確定しました。
これらの判決は、この両名が行った人道に反する行為に対してのある種の処罰と見なすことができるかもしれず、この紛争の犠牲者の遺族や難民となった人々の痛みや苦しみを、ある程度軽減する可能性はあります。しかし、身を守る術を持たない民間人を迫害し拷問を加え、数多くの人々をある民族の一員であること、もしくは人種、歴史、イデオロギーの違いを理由に虐殺した者に対しては、いかなる刑罰も十分なものとはなりえないと言えます。
西側社会、中でも国連をはじめとした国際機関へは非難の声が大きく、これらの事件における彼らの職務怠慢は、十分すぎるほど明確なものとなっています。
列強諸国は第二次世界大戦後、戦争・紛争の防止と国際平和及び安全の維持を目的として、国際連盟に代わり世界最大かつ最も強力な政府間機関となる国際連合を立ち上げました。
国際連合という名称と、そのホームページにも記載されているスローガン「健全な地球における平和、尊厳、平等(Peace, dignity and equality on a healthy planet)」を見れば、この組織を支える最も重要な柱のひとつが国際の平和及び安全の維持を担う安全保障理事会であることははっきりと理解でき、そこからも、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争、中でもスレブレニツァで行われた戦争犯罪をめぐる同組織の怠慢は、深い意味を持つものであることが分かります。なぜなら、スレブレニツァは国連が安全を保証すると宣言した地域であり、その責任は、PKO国連平和維持活動に携わる要員として青いヘルメットを身に付けたオランダ軍に委ねられていたものの、彼らはセルビア人に囚われた大勢のボスニアの人々のために何もせず、その結果、約8000人の民間ボスニア人が凄惨に殺害されたからです。
他国の人権問題に対する西側社会の怠慢および黙認は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が最後となったわけではありません。彼らはその後も、アフリカ中央部で80万人以上の女性や子どもが殺害された上、約20万人~50万人の女性が強姦された1994年のルワンダ虐殺を、その暗い経歴に加えています。
このように、人権をめぐって西側社会が行う主張、もしくは西側以外の諸国に対する人道を掲げたポピュリスト的スローガンの欺瞞には、多くの実例を挙げることができるのです。
引用元:
サイード・ハーシェミー「スレブレニツァの虐殺と西側式人権」(irdiplomacy.ir掲載)
「スレブレニツァの大虐殺:ヨーロッパ最大の人道上の悲劇」(ミーザーン通信)