西側の犯罪を再考する|カンボジアにおけるアメリカの犯罪
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カンボジアを爆撃するアメリカのB-52爆撃機
ベトナム戦争中、米国は多くの犯罪を引き起こし、カンボジア領土を大規模に攻撃しました。
【Pars Today国際】ベトナム戦争は1960年代、20世紀で最も大きな流血を伴う紛争の1つとなりました。ベトナムの隣国であるカンボジアは当初、中立を宣言していました。しかし、カンボジアの地理的条件とベトコン部隊(南ベトナムで結成された反米民族統一戦線)がカンボジア国境を避難場所として利用していたことから、米国はカンボジアを軍事目標とみなすようになったのです。1965年、米国はベトコンへの対抗を口実に、カンボジアへの地上・空中攻撃を開始しました。当初は限定的な攻撃でしたが、1969年にリチャード・ニクソンがアメリカ大統領に就任すると、攻撃は激化しました。ニクソン大統領は当時の国家安全保障問題担当補佐官のヘンリー・キッシンジャー氏に対し、カンボジアへの大規模な爆撃作戦の実行を命じました。「メニュー作戦」というコードネームで呼ばれたこの作戦は、兵力や資金の使用に制限を設けない、秘密裡の残忍な爆撃を伴うものでした。
虐殺と人道的影響
米国のカンボジア戦争は、残虐な犯罪行為を伴い、数千人の民間人の死と国のインフラの破壊を引き起こしたとともに、明白な人権侵害であるだけでなく、クメール・ルージュ政権の台頭とそれに続くジェノサイドの引き金となりました。米国の空爆により、カンボジア領土には54万トン以上の爆弾が投下されています。この爆撃量は、第2次世界大戦で米国が使用した爆弾の総量の2倍に相当するもので、これにより数千の村が破壊された上、数万人の民間人が殺害され、数百万人が難民化を余儀なくされました。
爆撃は国境地帯だけでなく、カンボジアの奥地にまで及びました。学校、病院、寺院、市場が無差別爆撃され、犠牲者の多くは、就寝中や遊んでいる最中に命を落とした子供たちでした。当時、多くの西側メディアは、この残虐行為を詳細に報道しようとはしませんでした。カンボジア爆撃作戦は長年秘密にされ、1970年代にペンタゴン・ペーパーズ(ベトナム戦争に関するアメリカ国防総省の機密文書)が公開されて初めて、その真の規模が明らかになりました。しかし、世界的な非難を浴びたにもかかわらず、アメリカ当局者がこれらの犯罪で起訴されることはありませんでした。
ここからは、これらの犯罪のいくつかを取り上げていきます。
1. メニュー作戦この攻撃により130人以上が死亡し、数百人が負傷しました。1969年から1973年にかけて、アメリカはメニュー作戦の一環として、カンボジアに54万トン以上の爆弾を投下しました。この爆撃の標的となったのは、ベトコンが潜伏しているとみられるカンボジア東部の地域でした。この爆撃では無防備な村、学校、寺院、市場が攻撃の標的となり、数千人の民間人が虐殺されています。
2. ネアク・ルオン村の破壊
1973年、アメリカのB-52爆撃機がカンボジア・カンダール州とプレイベン州の間に流れるメコン川沿いのネアックルンという小さな町を誤爆しました。この事件は、カンボジアにおける米軍の最も悲惨な大失敗の一つとされています。
3. 数百万人のカンボジア人が難民化
容赦ない米軍の爆撃作戦により、200万人以上のカンボジア人が住む家を追われ、他の地域に難民として避難せざるを得なくなりました。この大量難民の発生により、カンボジアの社会経済基盤が麻痺し、人道危機が発生しました。
カンボジアの政情不安に関与した米国
米国の攻撃によって生じた情勢不安は、当時のカンボジア政府の崩壊をまねき、権力の空白を生み出しました。さらに、これによりポル・ポト率いるクメール・ルージュ政権(KR政権)が台頭し、後に史上最大規模のジェノサイドの一つを実行したのです。この組織は200万人以上のカンボジア人を虐殺しました。多くのアナリストは、カンボジアにおける米国の犯罪行為が、クメール・ルージュの権力掌握および、数百万人のカンボジア人の虐殺に必要な下地を作ることになったと考えています。
結論
カンボジアで米国が引き起こした犯罪は、20世紀における軍事侵略と人権侵害の明確な例です。これらの行為は、数千人もの無辜の民の命を奪っただけでなく、数十年にわたってカンボジアの政治的・社会的将来に影響を与えました。これらの犯罪に対する世界的な沈黙は、国際的な司法制度の見直しと説明責任の必要性を物語っています。

