ガザ、スーダンからのジェノサイドの生中継と傍観者の責任
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複数の国際機関がガザでの大量虐殺と東アフリカ・スーダンのエル・ファシャーで意図的に飢餓が引き起こされている事実を確認している中、一部の国による政治的、軍事的支援の継続が、戦争犯罪への法的共謀について強い疑問を提起しています。
(last modified 2025-11-08T12:10:55+00:00 )
11月 08, 2025 18:50 Asia/Tokyo
  • イスラエル軍がガザ・ハーンユヌスの一部地域を空爆した後、住宅地の上空に立ち上る煙
    イスラエル軍がガザ・ハーンユヌスの一部地域を空爆した後、住宅地の上空に立ち上る煙

複数の国際機関がガザでの大量虐殺と東アフリカ・スーダンのエル・ファシャーで意図的に飢餓が引き起こされている事実を確認している中、一部の国による政治的、軍事的支援の継続が、戦争犯罪への法的共謀について強い疑問を提起しています。

非営利の英報道監視組織ミドル・イースト・モニターは最近、人道支援・人権擁護・コミュニケーションの専門家タチアナ・スヴォロウ(Tatiana Svorou)氏による記事において「今日の世界では、何事も隠蔽されたままでいることはない。無人機、衛星、携帯電話を通して、破壊の映像が刻一刻と私たちに届く。ガザとスーダン西部エル・ファシャの状況を私たちは生で見ているが、我々が見れば見るほど自らの反応は薄れていく」と述べています。

【ParsToday国際】フランスの社会学者ディディエ・ファサン氏は著書『人道的理性』の中で、「現代における共感はしばしば見せ物となり、正義ではなく憐れみしか生み出さない感情になっている」と述べています。今日、この言葉はいつの時代にも増して真実に迫っているように思われ、憐れみが湧き上がる一方で、責任追及は停止したままとなっています。

各国政府は暴力を止めるのではなく、政治的な物言いで暴力を操り、被害者を侵略者、支配による加害者を被害者として描きます。この逆転によって、占領と包囲の歴史は消し去られ、構造的な抑圧は「一時的な紛争」へと矮小化されます。ローマ帝国時代の歴史家タキトゥスはその昔、「人間は時に被害者を嫌悪することがある」と述べていますが、同じ論理は今日も続いています。つまり、政府は被害者を非人間化することで暴力を正当化しているのです。

ガザを決して忘れることはできません。2025年11月5日現在で、6万8000人以上のパレスチナ人が殉教したほか、17万人が負傷しています。ICC国際刑事裁判所は「シオニスト政権イスラエルの行動はジェノサイド条約に明確に違反している」と断言しました。また国連の報告書も、ガザの飢餓、援助の封鎖、病院への攻撃を報告しています。米ブラウン大学のプロジェクトは、イスラエルの軍事行動が「生存に適さない状況」を生み出していると結論付けています。さらには停戦後の沈黙さえも、ガザの組織的な破壊の兆候だと言えます。

スーダン西部・北ダルフール州のエル・ファシャーでも、同様の状況が発生しています。信頼できる情報筋により、深刻な飢餓、集団墓地、そして1週間で2000人以上の民間人が殺害されたことが確認されています。国連は、飢餓が意図的に引き起こされたことを示唆する証拠に基づき、レベル5の飢餓を宣言しました。これは国際法上は戦争犯罪に該当しますが、国連安保理は拒否権発動というシステムによって機能不全に陥っており、ICCもまだ行動を起こしていません。

ジェノサイドは、決して単なる殺害ではありません。ジェノサイド条約第1条に基づき、各国にはジェノサイドを防止する義務があります。ICCは、旧ユーゴスラビア・ボスニア対セルビア紛争において「危険が認識された瞬間からこの義務が始まる」と強調しました。ガザについては、危険は認識されたのみならず、私たち全員が直接目撃し、記録しているものです。したがって、ジェノサイドの加害者に武器や政治支援を送り続ける国は、国際法上この犯罪に加担していることになります。

法もまた不平等と化しています。「魂の不平等」とは、正義が弱者にのみ行使され、強者には先延ばしにされることを意味しています。ガザとエル・ファシャーの両市は、正義が政治的便宜に基づいて配給されていることを裏付けています。

人間の感情は、構造がなければ、単独では不十分です。行動を伴わない共感は「正義の政策のない心の政策」になってしまいます。ガザに関するICCの判決とスーダンに関する国連の警告は、各国が何をすべきかを示してはいますが、依然としてそれを実行する意志が欠如しています。

もし本当に説明責任が重要なら、ジェノサイドの容疑をかけられている政府への武器や監視機器の移転を阻止することから始める必要があります。そして独立した調査を支援し、被害者を依存状態から脱却させ、主体性を取り戻せるような形で賠償が行われるべきです。そして何よりも、あらゆる場所で同一の基準が適用されなくてはなりません。

結局のところ、私たちはシンプルな原則に立ち返るべきであり、それは、「見ること」は行動に繋がるということです。ただ傍観しているだけで何もしなければ、私たちの沈黙は暴力を容認したことになります。目撃は説明責任にり、知識は予防に繋がり、予防は正義に繋がるべきものです。沈黙はもはや、無罪や責任なしではないのです。

 

 


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