3月 30, 2021 21:46 Asia/Tokyo
  • 子供たちのノウルーズ
    子供たちのノウルーズ

日記帳をめくると、楽しかった日々や苦しかった日々が思い出されます。

今も私の記憶に残っている楽しい日々は、日記帳の中で輝きを放っています。その一方で、辛く悲しい、あるいは空白の日々は、暗がりの中に沈んでいます。小さな頃、日記を書くことは面倒な作業であり、いつも簡単に、短い文章でしか書いていませんでした。ある日は文章も途中で切れ、動詞や主語、副詞の語順が入れ代わったりして、その日に起こった出来事だけが書かれていました。

 

しかしこうした日々の中で、ノウルーズの祝祭については良く覚えています。大人たちから、祝祭は子供たちのためのもので、実際、ノウルーズの多くの慣習は、子供たちと共に、あるいは子供たちのためにあるのだ、と聞かされていました。私が子供だった頃、ある日の朝、突然季節の匂いが変わるのを感じました。その当時は今のように狭いアパートのような空間での生活ではなく、自動車の排気ガスや渋滞の騒音もありませんでした。ある朝、中庭に出ると、突然、冬の気配がなくなり、寒さや乾燥、気だるさの匂いも薄れていることに気づきます。もはや布団の暖かさを必要としなくなります。春が木の枝の先から姿を現し、小さな若芽が全力で冬に打ち勝ったことを宣言しています。

 

日記の中で、私は8歳でした。その日の朝、私はこう思い込んでいました。今日はノウルーズ、春がやってきたと。天気はよく、母は私の新年用の新しい服を買う話をしています。祝祭は子供たちのものだと私は聞いていました。うきうきしていました。今日から新年までカウントダウンしないと。現在、私自身が子供のために新しい服を買う立場になりました。子供は尋ねます。「なぜ新しい服を買わないといけないの?」。私は少し考えて、こう答えます。「毎年この季節になると、自然は新しい服を身に着けて、冬の寒さの殻を破るでしょう。よく見てご覧なさい。枝の上の色とりどりの花が、美しい衣装をまとうかのように、壮大な祝祭を行う準備をしているでしょう。この祝祭に私たちも招かれているのですよ」。今日の早朝、太陽が昇るのを目にし、私は太陽もまた私と同じように春の到来を信じているのだと感じました。太陽はあたたかく、輝いていました。太陽も、春が待ちきれずに世界を照らし、すべての場所、すべての人の中で春を捜し求めます。

 

 

年末になると、朝から街頭は騒がしくなります。まるで人々は眠気を感じないように、すべての人が全力で春を迎える用意をします。商店街は多くの人であふれ、ノウルーズの贈り物・エイディを買いに来ます。とはいえ、最近では多くの人がエイディとして、現金や金券を送っています。しかしながら贈り物として品物を買う人もたくさんいます。エイディを贈る習慣はイランでは遠い昔から行われており、子供たちはおそらくノウルーズと言えばエイディ、お年玉だと答えるでしょう。ここ数日、子供たちは家族と一緒にノウルーズの訪問に参加しています。祖父母の家に行くと、子供たちは彼らからエイディをもらいます。この他多くの慣習が子供たちの生活に新たな色を与えます。このような慣習は子供たちの良い思い出となるだけでなく、感情面、社会面での成長において大きな影響を及ぼします。私がもらった愛すべきエイディ、贈り物には、ハーモニカ、人形、イラスト入りの雑誌、時計、アルバム、そして日記帳などがありました。過去のノウルーズの思い出がよみがえってきます。これほど私の記憶の中に生き生きと残っているとは思いませんでした。

 

子供時代のノウルーズには、年が明けた後に、贈り物をもらっていました。父は毎年のようにコーランをもってきて、吉兆のしるしとして、その中から新札をエイディとして子供たちに渡します。私の思い出のノートの傍らには、子供のころから今年までもらった様々な色のお札の入った箱が置いてあります。そのお札は父が私にくれたもので、思い出として残してあり、その年の日付が隅に書いてあります。これは私の宝物の一つで、その価値は何にも代えがたく、父のノウルーズの顔を思い出すものとなっています。

 

 

ノウルーズの興味深い慣習の一つは、ハフトスィーンと呼ばれるお正月飾りであり、これは数千年前から現在まで、わずかに変化しながら続けられています。今も世界中のイラン人が新年の開始前にハフトスィーンを準備し、13日目まで飾られています。リンゴ、ニンニク、酢、ソマーグ、青草、色付きの卵といった食物がこの中に飾られますが、中でも卵は興味深いものです。というのも他の食物はその名前がペルシャ語のスィーンの文字から始まりますが、卵はこの文字から始まらないからです。卵はゆでて色が付けられ、絵が描かれたものが飾られます。子供たちはそれぞれ好きな色や形を卵の殻の上に描いていきます。思い出ノートをめくると、最初の数ページに絵が描かれています。ある時にはハフトスィーンが、またある時には花や鉢植えが、またある時に色付きの卵が描かれていました。私は兄弟たちと一緒に卵に色を付け、そのあと絵を描き、大事にとっておいたことを覚えています。ノウルーズの休暇を終えて、それらを学校に持っていき、展示会で飾ったことがノートに書かれています。

 

卵の絵は子供たちの数だけ、彼らが想像した分だけ様々です。イランの国旗を描く子、ハフトスィーンの金魚を描く子、月や星が輝く空を描く子。私の母は言いました。卵に上手に絵を描いた人にご褒美をあげると。そこで私たちははしゃいで白い卵の表面に、緑や青や赤や黄色の色を付け、母の愛情あふれる手からご褒美をもらったのでした。それは人生の最高に楽しい瞬間でした。母はハフトスィーンの布を広げ、水と鏡によって私たちの家に光を入れました。また子供たちの数に合わせてリンゴを飾りました。年が変わると、私たちはみんなその赤いリンゴをもらいました。今もあれほどの美味しいリンゴは食べたことがありません。

 

私のノートには、ノウルーズにちなんで、リンゴの絵が描かれています。そしてその傍らにイランの有名な現代詩人、ソフラーブ・セペフリーの詩が書かれています。

 

 

いつか

 

私はやってくる、メッセージをもって

 

血管に、光を注ぐだろう

 

そして声を上げる                                                                                                      

 

眠りに満ちたあなた方の籠よ!私はリンゴを持ってきた、太陽の赤いリンゴを

 

 

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