預言者の奇跡
今回の番組では、預言者の特性の一つとしての奇跡、その魔法との違いについてお話しすることにいたしましょう。
預言者は、救済の道を示し、成長と完成の障害を取り除くために遣わされました。明らかに、このような役割を果たすためには、特別な能力を持っている必要があります。彼らの持つ能力の一つに奇跡があります。どのような理由で預言者たちは奇跡を必要としているのでしょうか?
あらゆる主張を証明するためには、根拠が必要であり、証拠や根拠なく主張は認められません。さらに、あらゆる主張を証明するためには、述べられている根拠や主張の間に、一種の共通性が存在しなくてはなりません。例えば、ある人が電気系の専門家だと主張したとしたら、誰も彼にその主張を証明するために医療問題を解決したり、レスリングの選手と競技を行うよう求めたりはしません。そうではなくむしろ彼には、その専門分野で必要な知識を持っていて、その能力を発揮することが期待されます。それでは、神の預言者の主張はどうでしょうか?どのような方法で、彼らの話は証明されたのでしょうか?
預言者のメッセージは、彼らが神に選ばれ、人類に遣わされ、幸福と完成の道を人間に示す任務を負っているというものです。預言者たちは、自分たちの教義は至高なる神からのもので、それは神の永遠の恩寵から得たものであり、自分たちの話は欲から出たものではなく、真理の泉から湧き出る真のメッセージなのだと述べています。預言者の地位の重要性と指導者としての重い責務に注目すると、その偉人たちは、自らの預言者としての主張を証明するために明らかな証拠を提示し、それにより偽りを主張する人々の道を塞ぐことが必要です。
一般の人々が預言者を偽る人々の罠にはまらないように、神は明らかな証拠を自らの使者に託しており、誰も権利や真理を欺瞞で覆うことができないようにしています。この証拠こそが奇跡であり、神の支援による以外、どんな人間もそれを行うことができないものです。奇跡は特別な行為であり、預言者は自らが預言者であることを示すために、神の意志を実行します。奇跡は生命の創造主と彼らの関係を示すものです。というのも神の意志は根拠の提示により、使者が自らの正しさを人々に知らせ、この行為を奇跡を通じて実行させるものだからです。
世界の創造主からのメッセージや託宣を主張する人は、他者にとって不可能な、驚異的かつ超自然的な行為を行わなければならないのは当然です。このため奇跡は自然の、物質的な要因の枠組みを超えた行為であり、その実行は全知全能の神の意志がなければ不可能です。この場合、預言者が人々に示す奇跡とは、神が預言者に委ね、神との関係に関する彼の話が証明されるような信任状の代わりなのです。
奇跡は、人間の能力を超えた、超自然現象であり、預言者と生命の起源との関係を示すものです。さらに、奇跡とは、どんな人間もそれに対抗することができない性質のものです。様々な科学の分野での学者や研究者が集まり、持てるすべての能力を使ったとしても、奇跡を起こすことはできないでしょう。明らかに通常の人間にはこのような行為を起こすことはできないのです。
明らかに、預言者が起こした奇跡は、神の意志、神が彼らに委ねた力によって行われたものです。コーランでは預言者イーサーについての奇跡が語られています。コーラン第3章アールイムラーン章、イムラーン家、第49節には次のようにあります。
「そして(イーサーを)イスラエルの民のための預言者として(遣わした。そして彼らに言え、)まことに私はあなた方の神からのしるしをあなた方に持ってきた。私はあなた方のために泥から鳥の形を作り、それからその中に息を吹き込み、神の許しによりそれを鳥にする。(さらに)神の許可により、生まれつきの盲目、ライ患者を癒し、死者を神の許可によりよみがえらせる。そしてあなた方が食べているもの、家に蓄えているものを告げよう。本当にこの(奇跡の)中ではあなた方にとってのしるしがある。もしあなた方が信仰を持っているならば」
奇跡が超自然のものであることが明らかになると、今度は次のような問いが湧いてきます。魔術師や行者、英雄の驚くような行為と、神の預言者の奇跡とはどのような違いがあるのでしょうか。どのようにして彼らを区別すればよいのでしょうか。その答えはこうです。あらゆる驚異的な事柄を奇跡とは呼びません。なぜなら神の預言者の奇跡は特徴を有しているからです。奇跡を見分ける多くのしるしがあり、それによって正誤を、また奇跡と魔法を見分けることができるのです。
原則的に、預言者の奇跡は、神から彼らに施されたもので、教えたり習ったりするものではありません。つまり預言者は奇跡を示すために誰かから習っているわけではないということです。しかしながら、魔術や行者の力は習得することができます。彼らは驚異的な事柄を行うために、特別な教えを受けます。例えば40日間飲まず食わずにいることが出来る行者や、非常に重たいものを素手で頭の上に持ち上げたりすることのできる重量挙げの選手は、多くの訓練によってこうした能力を手に入れます。コーラン第2章アルバガラ章、雌牛、第102節では、人々に魔法を教えている人々について触れています。このように魔法や魔術は習得することができるのです。イスラム教徒の学者であるソブハーニー師は、これについて次のように記しています。
「行者や魔術師が備えている秘密の力は技術を持った師匠のもとで習得した教えの直接の結果である。彼らは長年こうした特徴を得るために訓練を行ってきた。先のとがった釘の上に寝たり、大きな石を胸の上で破壊したりすることのできるインドの行者は最初は普通の人で、多くの苦行と訓練により、強靭な精神を見出し、いわゆる神秘的な力を得た。魔術師も師匠の下で特別な訓練を受けた後、魔術を行っている。実際、修行や苦行が魔術の基盤にあるが、預言者の奇跡は革新的な側面を有しており、最小の教えを受けた経験すらも彼らの中にはない。彼らの生涯の歴史はこうした主張を最も明らかに証明するものなのである」
このように神の預言者の奇跡は訓練、修行あるいは苦行に基づいたものではなく、人間を導くために神から授けられた恩恵なのです。
最後に歴史的な例を挙げることにしましょう。預言者サーレハのラクダの物語です。人々は神の預言者サーレハに対して奇跡を起こすよう求めました。彼らは彼に、「もしあなたが神と関係を持ち神に遣わされた人間なら、この山からラクダを出現させることができるだろう」と言いました。サーレハは自分が修行を積んで、これができるようになるまで待ってほしい、とは言いませんでした。そうではなく神の奇跡により、山の岩の間からメスのラクダを出現させました。こうして彼が預言者であることが証明されたのです。
このように奇跡は人間の行為とは別物です。さらに預言者が奇跡によって行った驚異的な事柄は、どんな厳しい修行を積んで優れた技術をもってしても行うことはできないのです。