7月 07, 2022 02:03 Asia/Tokyo
  • イマーム・バーゲル
    イマーム・バーゲル

今回は前回に引き続き、預言者ムハンマドの末裔とされるシーア派5代目イマーム・バーゲルの統治時代についてお話することにいたしましょう。

言者一門は、イスラムを守り人々を指導し、腐敗や不公正と戦うために、時代の状況やニーズに応じて様々な方法を選んでいました。これらの偉人たちは、時には直接的な対決や運動、あるいは文化や思想面での奥深い、静かな戦いによりこの偉大な任務を遂行しようとしました。聖なるイマームたちの立場表明や生活様式は、当時のニーズによって異なっていました。それぞれのイマームたちの時代の状況を概観すると、彼らの思想面での原則や基盤にはいささかの矛盾もなく、彼らが全員、1つに統一された目標を追求していたことが分かります。もっとも、イマームたちは目標達成のために、時には表面上異なった戦略を用いたこともありました。

シーア派5代目イマーム・ムハンマドバーゲルは、4代目イマーム・サッジャードの息子であり、6代目イマーム・サーデグは、5代目イマーム・バーゲルの息子に当たります。この2人の偉大なイマームの統治時代は、およそ53年間に及びました。この時期は、ウマイヤ朝政権の滅亡とアッバース朝への政権の移行、そしてギリシャの思想や哲学がイスラム社会に影響を及ぼすという、2つの大きな出来事が起こった時期にあたります。ギリシャの思想の伝来は、イスラム社会にとって危険なものとなり、イスラム的な思想を変貌させ、歪める危険をはらんでいました。このため、この2人のイマームたちは現状に注目した上で、純粋なイスラム科学の教育と伝播、そして宗教教育の維持と監視に努めました。

 

一方で、預言者一門は教養と精神性を兼ね備え、預言者に近しく、またシーア派3代目イマーム・ホサインがカルバラーの事件で殉教したことから、人々はそれまで以上に預言者一門に思いを馳せるようになり、預言者一門を慕う人々は日増しに増えていきました。5代目イマーム・ムハンマド・バーゲルの時代には、人々は少しずつイスラムの叡知や預言者一門の学識の素晴らしさを味わい、イマーム・バーゲルの周りに集まり、多くの学問やイスラム法学、信条面でのテーマなどについて、しきりに彼に尋ねるようになりました。また、イラクのハナフィー派の法学者アブーハニーファといった、シーア派以外の宗教学者までもが、学識を学び取ろうとイマーム・バーゲルのもとにやって来たほどでした。

長年にわたり、イスラム法学者が統治体制に従属し、ウマイヤ朝政権の都合に合わせてイスラムの伝承ハディースを改変していたことから、イマーム・バーゲルとイマーム・サーデグによる学問の世界はイスラムの伝承の改変を修正し、偽りの伝承と本物の伝承とを分離させるために、好都合な場となりました。彼らは、過去100年間にわたってウマイヤ朝により宗教の叡知に生じていた逸脱に抵抗し、正しい道を示したのです。

イマーム・バーゲルの学識の高さは、その教えにも明白に現れており、彼の友人のみならず敵までも驚嘆したほどでした。このため、イマーム・バーゲルは知識の分析者、という異名をとっていました。彼はまさに、この名前に相応しい人物だといえます。それは、イマーム・バーゲルが学問を分析し、コーランに秘められた真実と秘密を解明すると共に、様々な学問の世界を渡り歩いていたからです。

 

イマーム・バーゲルは、当時の社会に圧迫感や閉塞感が漂っていた中、イスラム世界における文化的、学術的な改革を行いましたが、その成果はその後の時代に現れました。彼のとった戦略は、大規模な学術・教育機関を設置することで、イスラムの思想を紹介することでした。彼は、人々を迷わせる偽りの信条の前に敢然と立ちはだかり、イスラムという清らかな概念から異端や邪道に陥った信条を吹き払おうとしたのです。

また、注目すべき点として、ギリシャの思想が影響を及ぼしていたことに加えて、イスラム文化圏内においても、ウマイヤ朝の支配者たちの支援を受け、邪道に外れた異端な思想や信条の一部が広まっていたことが挙げられます。イマーム・バーゲルは、コーランを論拠とすることで、こうした異端な思想に対抗しました。いずれにせよ、ウマイヤ朝の悪影響を受けていた思想や信条の基盤の多くが、イマーム・バーゲルの効果的な活動により再建され、このようにしてイスラムは邪道や歪曲という危険から解放されたのです。

イマーム・バーゲルは、自らの学問、文化的な運動において、イスラム共同体に秘められた資質を開花させました。この偉人を研究する現代の学者も認めているように、イマーム・バーゲルは当時の傑出した思想家といえます。この偉人は、イスラム法学の普及に重要な役割を果たし、ウマイヤ朝の暴君が宗教的なテーマについて考えることを禁じていた時代に、自ら学問や討論の場をもうけ、人々にあるテーマについて熟考するよう促し、理性や知性の価値を強調しています。

 

イマーム・バーゲルは、宗教の叡知から曖昧さを吹き払うため、またそれが邪道へと逸脱しないようコーランと宗教の伝統という2つの源に注目し、これらを思想や教示を検証する基準とみなしていました。彼は、物事の信憑性を計り、真理から虚偽を払拭する基準として、コーランが高く位置づけられていることを強調しています。また、最高位のコーランの解説者として、コーランの節を明確に分析し、コーランの美しい真理を人々に提示したのでした。

イマーム・バーゲルの見解では、真理と虚偽を識別する2つめの基準は、預言者とその一門の伝統だとされています。イマーム・バーゲルは、預言者一門こそ、預言者以降の時代にイスラムの考え方を認識する唯一の確実なより所であるとしています。それは、預言者一門には罪や穢れ、落ち度が一切なく、学問への決意を固めた、神の啓示の本当の解説者であるからです。

イマーム・バーゲルが、イスラムの文化やイスラム学を深く理解していたことから、メディナの町には世界の津々浦々から学問を求める人々がやって来ていました。そして、モスクで彼のもとに集まり、宗教の教えを学んでいたのです。イマーム・バーゲルの居場所は、思想家や学者、イスラムの伝承ハディースの語り部、説教師や詩人の集まる場とされていました。彼が設けた学びの場では、人々に学問や倫理が教育され、イマーム・バーゲルは自らが提唱する学派に基づいて、イスラム共同体に優れた思想家を送り出しました。そうした思想家の一部は、宗教関連、或いはそれ以外の様々な学問の発展に重要な役割を果たしています。

 

イマーム・バーゲルの時代は、ウマイヤ朝の数人の支配者の治世に当たり、その最後に当たったのがヒシャーム・ブン・アブドルマレクでした。彼は、人々の間では吝嗇で気性が荒く、暴君として知られ、彼の時代に生きた人々は強い圧迫を受けていました。このため、時の経過と共に、イマーム・バーゲルを認める人々が増えていったのです。暴君ヒシャームは、一般市民の間でイマーム・バーゲルの人気が日々高まっていることを懸念し、また恐れてもいました。彼は、あらゆる方向から、日々高まるイマーム・バーゲルの影響力の拡大の根源を断ち切ろうとしましたが、これは常に失敗に終わっていました。このため、ヒシャームは遂に、イマーム・バーゲルの暗殺を決意します。こうして、イマーム・バーゲルは暴君ヒシャームの命令により毒殺され、57歳で非業の殉教を遂げたのでした。

 

 


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