4月 25, 2024 15:17 Asia/Tokyo
  • イラン東部タバス砂漠で起きた米軍の敗北
    イラン東部タバス砂漠で起きた米軍の敗北

イラン国民による革命および、米国に従属していた旧パフラヴィ―独裁王朝政権の崩壊から約15カ月後の1980年4月24日、イラン東部のタバス砂漠で「鷲の爪」と称した米軍の作戦が行われました。しかし作戦は当初から大惨事に遭い、失敗に終わりました。

この事件は、当時のカーター米大統領が対イラン軍事攻撃を決定した後に起きたものです。この攻撃は、1979年11月4日にイラン人学生によって占拠されたテヘランにある米国大使館の解放を口実としたものでしたが、その真の思惑はイランの政治・軍事中枢機関を攻撃し、イランのイスラム共和制を崩壊させることでした。

ホワイトハウスは大使館占拠という学生たちの行動に不意打ちを食らい、自らの陰謀が暴露されたことから、軍事力の行使を決定し、一部の国内勢力及び西側メディアのプロパガンダ支援を後ろ盾として、イランにおける自分たちに従属する政権の樹立を狙いました。

 

米軍のイラン領侵入

米軍は当初の計画に従い、1980年4月24日にC-130輸送機7機とヘリコプター8機をイランに侵入させ、ジープや高速バイクなどの装備を送り込みました。

米軍はイラン南部から侵入し、当時のバニー・サドル大統領率いる西側寄り政権との連携により、約100キロ移動した後、何の支障もなく東部ロバートハーン・タバス近くにある、既に使われなくなっていた空港に着陸しました。

イラン国内に浸透していたスパイ組織との連携で、防空設備は米軍の通るルートからあらかじめ撤去されており、特殊部隊がタバス砂漠に到着したのは真夜中のことでした。

 

作戦の失敗・米軍装備の壊滅

しかし、その後、ヘリコプターの1機がC-130型機から燃料を補給し、地上から離陸した際に他の航空機と衝突し、両方とも炎上しました。

タバス砂漠で爆発した米軍のC-130輸送機


その後、砂嵐の影響で他の2機のヘリコプターも技術的トラブルを起こし、作戦実行は不可能となりました。その結果、カーター大統領の指示で計画の実施は中止に追い込まれました。そして、米軍はこの砂嵐で全滅すること、またイラン側の捕虜となることへの恐れから、夜間の間に逃げ去ったのです。

 

タバス砂漠に墜落した米軍ヘリ

 

米軍の指揮系統は大混乱をきたした上、死亡した米兵8人はヘリコプターの中に機密文書を残していました。

 

「鷲の爪」作戦で死亡した米兵ら

 

タバス砂漠の事故で死亡した米兵の遺体

 

事件が物語るもの

タバスでの敗北はアメリカ帝国主義に強い打撃を与えたとともに、ホワイトハウスの指導者らの面目を失墜させました。アメリカは、パフラヴィ―王政の崩壊とアメリカのスパイの逮捕を理由にイラン国民の処罰を狙いましたが、結果はその逆に終わりました。

 

タバスで遺棄された米軍機材の残骸に見入るイラン最高指導者・ハーメネイー師

 

タバスで遺棄された米軍機材の残骸に見入るイラン最高指導者・ハーメネイー師

 

もう1つの重要な点は、イラン国民がより警戒心を強め、西側の覇権主義的潮流の敵対が明らかになり、さらには国内にいる植民地主義的な西側との内通者が面目を失ったことです。カーター大統領は米大使館解放後に大統領再選を目指していました。しかし、このタバスでの失敗に加えて、当時のイラン最高指導者ホメイニー師が米大統領選の終了まで大使館占拠を続けることを決めたため、カーター氏は票を得られず選挙で敗北しました。その後、彼はインタビューで次のように語っています。

「私の大統領在任期間はアメリカ史上最悪の時代だった。なぜなら当時、アメリカ政府はイランでホメイニー師の人質に取られていたからだ」

 


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