故ライースィー大統領の生涯
(last modified Wed, 22 May 2024 07:11:19 GMT )
May 22, 2024 16:11 Asia/Tokyo
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    故ライースィー大統領の生涯

20日にヘリ墜落事故で殉教したイランのライースィー大統領は、1994年から10年間にわたって検事総長を務めました。この経験は彼の人生にとって転換点となり、政府機関のはたらきを監督するのに大いに資することとなりました。

ライースィー氏は1960年12月14日、北東部マシュハドのイスラム法学者の家庭に生まれました。両親はともに預言者ムハンマドの血筋を引く「セイエド」「セイエデ」(それぞれ男性名詞と女性名詞)と呼ばれる家系でした。

ライースィー氏は15歳を迎えた1975年、中部ゴムにある神学校(ホウゼ・エルミエ)に入学し、後にイスラム革命を指揮するホメイニー師の親戚が運営する学校で学びました。

ホメイニー師に師事して

1978年1月、当時の王政に近い新聞がホメイニー師を侮辱する記事を掲載すると、国民の抗議運動は一気に拡大します。ライースィー氏は、主に神学校内で開催されていた抗議集会に参加したり、王政側による拘束から釈放された宗教家らとやり取りをしたりしていました。

イスラム革命

1979年にイスラム革命が勝利すると、ライースィー氏は後に司法権長を務めるモハンマド・べへシュティー師(1981年、反革命勢力MKOにより暗殺)が開催した、体制運営に必要な人材育成の講座に参加します。また、革命間もない時期に頻発したマルクス主義勢力などによる暴動に対処するため、地方都市に出向き、革命理念の啓発活動にも従事しました。

1980年にはテヘラン西方のキャラジ地方検察でキャリアをスタートさせ、後に同市の主任検事に昇格します。1982年から84年までは、キャラジと併行して西部ハメダーン検察の任にも就きました。

1985年、テヘランの主任検事に就任すると、その手腕をホメイニー師に買われ、直々に地方都市の問題調査を命じられます。

 


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