世界の情勢:ケルマーンシャー・文明の揺籃、人々の忍耐の地
11月12日夜にイラン西部とイラク北部を襲ったマグニチュード7.3の地震により、436人が死亡し、1万人以上の負傷者が出ました。この出来事は、イランの人々全員に強い衝撃を与えただけでなく、世界全土に共感と、友情などの人道的影響を引き起こしました。
秋も後半に入り、ケルマーンシャー地方では気温も下がっています。11月12日、一日の終わりを迎えようとしており、多くの人々は家にいて、一日の仕事の疲れを癒していました。子供たちも喜びに満ちた光で目を輝かせ、温かいお茶を飲み、お菓子を食べながらくつろいでいました。
11月12日の21時48分、突然地震が発生しました。被災した女性は次のように語っています。
「私と家族は部屋の中にいました。突然、部屋のシャンデリアの揺れが激しくなり、全体が揺れました。幸いなことに、瓦礫で頭を打つことはなかったです」
この地震の震源地の深さは11キロで、震源地が浅く、揺れが長く続いたため、イラン北西部と西部、イラクの北部と西部の全体で知覚されていました。この地震の揺れは、トルコ南東部やクウェート、サウジアラビア北部でも観測され、2017年における最も多くの死者を出した地震となりました。
イランで最も死傷者の数が多かったのは、イラン西部・ケルマーンシャー州のガスレシーリーン、サレポレザハーブ、サラーズバーバージャーニーと伝えられています。この地震の影響で、数千棟の住宅が倒壊し、この地域における一部のインフラも深刻な被害を受けています。情報筋は、少なくとも、7万人が避難所を必要としているとしています。
イラン西部の地震による悲劇により、イラン国民は大いにこの出来事を遺憾だとしています。
イスラム革命最高指導者のハーメネイー師は、この地震の発生を受けて、メッセージを発しました。
ハーメネイー師は、このメッセージの中で、深い悲しみと遺憾の意を表明し、イスラム革命防衛隊と民兵組織バシージに対して、規律正しく速やかに、瓦礫の撤去と負傷者の移送を支援するよう、政府機関に対して、被災者とその家族の支援のために全力を尽くすよう指示しました。
この地震の発生を受けて、体制責任者や関係機関が、被災者への支援の準備を行いました。体制責任者や、イラン軍やイスラム革命防衛隊の総司令官などの軍関係者が、被災地の状況や計画立案を検討するため、被災地に入りました。
イランのローハーニー大統領も、14日火曜、救援活動のプロセスを検討し、被災地を視察するため、ケルマーンシャー州を訪れました。
しかし、この自然災害による悲劇の中で、永遠に残るものとなったのは、イラン国民と体制責任者がともにあり、共感しているということです。戦争であっても、自然災害であっても、信仰心による忍耐により、それぞれが自らの責務を遂行する中で、互いに支え合っているということを示しています。
イラン西部のザーグロス山脈の間に位置するケルマーンシャーは、大変古い時代から、その名前が記録されていました。およそ9000年前、温暖化で洞穴の外から出て、定住生活を行うようになった最初の人々は、この地域の人々でした。彼らは日干し煉瓦を作り、それを家の建築に利用した最初の人々でした。また、新石器時代、中東で最初の村が、この地域に形成されました。ケルマーンシャーの人々は、古代において、陶器を発明し、また、技術的な活動に従事した最初の人々で、ケルマーンシャーでは先史時代の遺物が多く発見されています。
イスラム以前の歴史における、ケルマーンシャーの歴史的な魅力とは、紀元3世紀から7世紀のサーサーン朝時代の遺跡が数多く存在することで、その代表が、ターゲ・ボスターン遺跡です。この遺跡は、ケルマーンシャーの町の象徴とされています。ターゲ・ボスターン遺跡は、サーサーン朝時代のレリーフなどの集合体で、ケルマーンシャーの市街地の北西部に位置しています。この遺跡は紀元3世紀に作られ、多くの芸術的、歴史的価値を有しています。この遺跡には、サーサーン朝の王、ホスロー・パルヴィーズやアルダシール2世、3世の戴冠などの歴史的なシーンや、パフラヴィー語の碑文などが刻まれています。
紀元前のアケメネス朝時代の遺跡、ビーソトゥーンの碑文は、ケルマーンシャーから30キロの地点にある、ビーソトゥーン山の裾野に位置しています。ビーソトゥーンの碑文は、世界史上、最も重要で有名な碑文で、アケメネス朝時代のもっとも重要な歴史的文書です。それは、アケメネス朝のダリウーシュ1世が政敵のグームーテに勝利し、反逆者を拘束している様子が示されています。この遺跡は2006年にユネスコ世界遺産に登録されました。
11世紀のセルジューク朝時代、ケルマーンシャーはクルド人の住む有力な都市とされました。また、19世紀のガージャール朝時代には、再び、都市となり、東西南北を結ぶ交差点、そして、イラクの近隣であり、シーア派の聖地カルバラとナジャフの巡礼路の中継地上にあるため、大きな重要性を有してきました。ケルマーンシャーは20世紀初頭の立憲運動においても、重要な役割を有し、第1次、第2次世界大戦の時期には外国軍が占拠し、終戦後解放されました。
ケルマーンシャーは、80年代のイラン・イラク戦争の際、戦争の中心地のひとつでした。この戦争はケルマーンシャー州で始まり、この州で終わりました。戦争の時期、この州の勇敢な人々がバース党政権の侵略者と英雄のように戦い、自国を守りました。
ケルマーンシャー州はまた、農業の中心地でもあり、この州の経済収入の多くは緑豊かな農地によって得られています。ケルマー
ンシャー州はまた、シルクロードの通過点のひとつで、クルド人が最も多く住む場所であり、さまざまな宗教や民族が存在し、また数千年前の居住地の発見により、文明の揺籃の地とされています。7月27日はケルマーンシャー・文明の揺籃の地の日とされています。
イランでは、地震の第一報が発表されたときから、被災者を救援するため、すべての可能性や人員の準備が行われました。被災者の生活必需品の確保における協力は、緊迫した際にイラン国民が一致団結することを示しています。現在も国民の強い意志は、この災害の被災者を癒す薬となっています。
この数日、社会活動家も速やかに被災地に入り、インターネットやSNSなどさまざまな方法によって、被災者が必要としているものに関するメッセージを発しています。こうした中で、芸術家やスポーツ選手は、注目に値する努力の中で、被災者の救援活動を行っており、これは現在も続けられています。テヘランのスポーツ協会のメンバーらは、15日水曜、被災者への支援を行い、人々の支援物資を集め、この地震の生存者に届けるため、テヘランのシャヒード・シールーディー運動場に集まりました。
また、2016年のリオ五輪の重量挙げ金メダリスト、キアーヌーシュ・ロスタミー選手は、震災の被災者のために、自身の金メダルをオークションにかけました。また、リオパラリンピックの射撃の金メダリスト、サラ・ジャヴァーンマルディー選手も、同じように金メダルをオークションに出しました。ジャヴァーンマルディー選手は2つの種目で金メダルを獲得しており、次のように語りました。
「この出来事の後、スポーツ協会は、被災者の支援を行ったが、私も、パラリンピック選手として何ができるか考え、この大きな流れの中で、ちいさな役割を果たそうと決心した」