神の預言者たちの特徴(2)
前回の番組では、神の預言者たちが、神から啓示を受けていたことをお話しし、その理由や根拠を説明しました。
彼らが預言者となった後に語った言葉は、それ以前に彼らの口から発せられていた言葉とは異なるものでした。そのことは、彼らが神から遣わされた預言者であり、神から啓示を受け取っていたことを示しています。その根拠を述べるために、この議論をもう少し続けることにしましょう。
神の預言者たちの教えを見れば、彼らが人類のためにもたらしたものは、神からのものであり、人類の能力を源にしたものではないことが分かります。預言者たちの教え、彼らの見解や思想を注意深く見れば、それほど包括的で正しい真理が湧き出て来ることは、人類の能力では不可能であることが分かるでしょう。
神の預言者たちは、それぞれが建設的な教えをもたらしました。それらは、人々の物質的、精神的なニーズを満たし、人々の思想を目覚めさせるものでした。預言者のそれぞれが、自分の社会に提示した事柄は、天才と呼ばれる人たちの人生においても前例がないだけでなく、学者たちの思想をかき集めたとしても及ばないようなものでした。このように、人間の中で優秀な人々や学者たちの中には、預言者に匹敵するものは存在しないと言えます。唯一、教えと生き方の点で匹敵するとすれば、それは、彼らと同じ道をたどった神の他の預言者たちであるのです。
興味深いのは、全ての神の預言者が、例外なく、自分の教えを啓示と関連付けていることです。預言者たちは、自分たちが発する言葉は、自分たちのものではなく、個人的な利益や欲望は、それに関与していない、それどころか、啓示によって届けられた、神の明らかなメッセージだとしています。
神の預言者たちの教えの源が、神にあることのもう一つの根拠は、彼らが自分の意見を提示する上で、非常に真剣かつ決然としていることです。彼らは完全に確信した上で自分の言葉を発しており、全く疑いを持たずに、真実を述べています。一方で、学者や思想家は、通常、真実を仮説という形で話し、ゆっくりと、その疑いの幕がはがされ、真実がそのままに明らかになります。しかし、預言者たちの方法は、そのようなものではありません。彼らは、真理を語ろうとするとき、あるいは真理を教えようとするとき、わずかな疑いも抱くことはなく、迷うことなどありません。彼らは意見や信条に確信を持ち、自分の言葉を強く信じており、そのような例は、彼ら自身の人生においてのみ、見られるものです。これは、預言者たちの崇高な教えが、人間以外のものを源としているために他なりません。その源は、全ての創造世界を支配し、世界において、その目を逃れるものはなく、必要な情報をはっきりと、隠すことなく、預言者たちに委ねることができます。
神の預言者たちを、学者や思想家と区別する別の問題は、学者たちの学術的な行動には過ちが見られるということです。私たちは皆、多かれ少なかれ、学者たちが長い年月の中で、一つの学術的な問題について、様々な見解を持ってきたことを目にしています。アインシュタインは、このように語っています。「今日、過去の過ちから、ある内容を最終的な真実として語れると考える学者はほとんどいない」
普通の人間であれば、必ず失敗します。偉大な学者であっても、学術的な問題を分析する上で、過ちを犯す可能性があります。学術機関の研究員であっても、専門的な問題において過ちを犯すかもしれません。このように、ある問題に関する学者の見解を、その問題に関する最終的な結論と見なすわけにはいきません。経験に照らし合わせて、その見解の正しさがを明らかにする必要があります。しかし、このような角度から預言者たちの教えを見るとき、彼らに関しては、それが当てはまらないことが分かります。彼らは預言者としての任務を遂行していた際、いかなるときも、矛盾に陥ったことはなく、様々な信条や考え方、矛盾した内容を提起したりすることはありません。
興味深いのは、預言者たちの人生において、一度たりとも、真実を教え、その後でその見解が変わったり、以前の言葉は無効だと発表して、主張を変えたりすることはありませんでした。学者たちは、真理を突き止めるために、通常、一歩一歩、試験と過ちを繰り返しながら歩みますが、預言者は、真理を突き止めるために一歩一歩、経験に基づいて進むのではないにも拘らず、彼らの見解に過ちは見られず、矛盾もありません。このような特徴は、それ自体、彼らの知識が、神という、全てのものを創造し、真理をよく熟知している存在を源としていることの証明です。
神の預言者たちの言葉や教えが、学者と同じように、人類の考え方を源としていたら、きっと、その計画や教えにも過ちや矛盾が数多く見られていたことでしょう。しかし、彼らに関しては、そのようなことはありません。実際、預言者たちの心は、鏡のように透明であり、埃や錆は全く見られず、神の光を反射しています。そのため、預言者たちは、啓示として受け取った事柄を、そのままの形で真実として伝えることができるのです。
預言者が、世界の創造主である神から遣わされたことを示すもう一つの根拠は、彼らの考え方が、互いに似通っていることです。預言者たちは、様々な土地で、様々な民族の間に遣わされましたが、そのメッセージは一つです。彼ら自身も強調しているように、神の預言者たちは皆、以前の預言者とゆるぎない結びつきを持ち、それを認めています。彼らの後に来る預言者を認めると同時に、その出現を知らせています。このように、彼らは前と後の預言者の強い結びつきを明らかにしています。しかし、学者たちに関しては、それは当てはまりません。彼らのメッセージや主張は、歴史の中で一つではなく、また以前の学者や以降の学者と強い結びつきを持っているわけでもありません。
神の預言者とその思想がどのようにして互いに結びついているかを、聖書から引用してみましょう。聖書は、預言者イーサーと過去の預言者たち、その教えとの結びつきを伝えています。預言者イーサーはこのように語っています。「私がやって来たのは、ユダヤ教の聖典や、その書物を無効にするためだと考えるべきではない。私はそれらを無効にするためではなく、それを完成させるためにやって来たのだ」
実際、預言者イーサーは、以前の預言者との自らとその教えの結びつきをはっきりと表明しています。神はコーラン第5章アル・マーイダ章食卓の第48節で、イスラムの預言者ムハンマドに向かってこのように語っています。エ「またこの書物を真理と共に汝に下した。それは以前の啓典を認め、それを支配するものである。だから神が下した事柄に沿って、彼らの間を調停しなさい」
このように、神の預言者のいずれも、自分を清らかな他の預言者と切り離して考えることはなく、神の偉大な預言者と神の教えは皆、神という一つの源から発されているのです。