環境倫理
前回の番組では、環境問題に関係する組織や、環境問題を軽減する方法についてお話しました。今日、多くの有識者は、世界の環境対策は、環境倫理が考慮された場合にのみ可能になるとしています。今回は、環境倫理について取り上げていくことにしましょう。
道徳とは昔から、2人、あるいは社会全体の人々の関係を定義しようとするものです。しかし一部の有識者によれば、人間と地球、動物と植物の関係について定められたモラルはこれまでほとんど注目されてきませんでした。このうちの3つ目のモラル、つまり人間と環境の関係に関する倫理の拡大は、革命的な機会であり、環境にとって不可欠なものとなっています。
今日、いつの時代にも増して、人間がほかの生き物を、人間が作り出す弊害からどのように守っていくべきかという問題への注目が強く感じられています。このため、今日、環境問題への懸念に応じるためのモラルが注目されています。
明らかに、現代の環境上の危機は、物質的な思想や支配欲、ゆがんだ考え方や無知によって生み出されています。生活や社会の乱れ、環境の危機は、人間の心の乱れを示しているのです。
確かに、1960年代に環境問題は深刻な形で現れました。国連はこれに関する多くの国際会議を開催しましたが、もし環境に対する警告が、ただ国際会議のみで提示されるだけなら、持続可能な生活が実現することはないでしょう。確実に、これに関する成功は、人間の生活における幅広い分野での能力と独創性にかかっています。
1950年代以降、人間によって作り出された環境問題は、技術だけを使っても解決できず、人類の行動を改める必要があると提唱されてきました。つまり、人間と自然の関係を再検討する、環境に対するモラルに基づいた行動が必要なのです。このことは、物質的な自然環境学が、急速に行動学に変わっているといわれているほど重要です。
この事実は、ロシア系アメリカ人の社会学者ソローキンに注目されています。ソローキンは国際社会に必要なものは、環境倫理だとして、次のように語りました。
「技術や産業の発展にもかかわらず、いまだに我々は、いつの時代にも増して、人間性、道徳性の欠乏を感じている」
ある現代思想家は、環境倫理について指摘し、次のように語りました。
「物質的な計画では不十分だ。我々は、長期的な未来への対応が必要だ。それは、道徳的な価値に基づいている」
つまり、環境倫理の形成は、人間の必要性から発生したものです。環境を守る上でのモラルを理解することにより、そのほかの人々も環境に関する見解を提示しています。こういった思想家は、ほかの生物に対するモラルへの注目の必要性を語っています。
すべての思想家の見解で重要だとされているのは、環境倫理に関する人間の責務とは、損害が及ぶの阻止し、保護することだという原則を生み出すという点です。
言い換えれば、環境倫理とは、人間の行動や思考の原則の集合であり、それは人間と自然のシステムのすべてにとってよいことです。つまり、環境倫理とは、自然に対する行動について、社会内部に倫理的な制限を設けることです。この制限はすべて、個人が自発的にその自己中心性を抑えることであり、ほかの生物も、生きる権利や自由権、資源の利用を行う権利を持っていることを認めることなのです。
環境倫理に関する研究では、その環境倫理がその土地に見合ったものであることに必要があります。つまり、今日、環境における倫理を定義する中で、その土地ごとに特有のものであることが注視されています。この種の倫理の拡大はすべての土地の文化や価値観、信仰や思想に沿ったものである必要があります。
一方で、環境倫理について、宗教的、歴史的なアイデンティティに注目する必要があり、世界観や宗教的指導が個人や社会の行動に及ぼす影響は、保護活動にとって決定的な要素であり、自然環境との共生において、それを活用することができます。
このことに注目し、今日、多くの人は環境危機とは精神的、宗教的な危機であり、現世の生活と宗教を切り離すことは、環境問題が出現する最も重要な要因だと考えているのです。
このように、動物や植物に対する行動における、倫理的な思想や宗教的価値観の影響が重要なことから、環境危機の解決法は、改めて宗教的な伝統の中に見出す必要があると強調されています。このことは、私たちを神に向かうことの価値観に導いています。
神に向かう傾向とは、世界に対して神が中心だということを理解することであり、神が地上の創造主であり、監督者であるという信仰に基づきます。すべての一神教では、このことが強調されています。つまり環境への配慮は、実際には神の創造物に対する配慮にあたります。一部の見解では、人間中心主義の問題に陥っており、確かに一神教において、人間はほかの創造物とは異なっていますが、環境についても特別な責任をおっており、環境について決断を下す際、ほかの創造物に起こりえる結果を無視してはならないのは、まさにこのような責任が理由なのです。
歴史の中で、さまざまな宗教は、宗教的な戒律を通じて、人類の生活のための指示を作り出していきました。それは直接、あるいは間接的に環境保護を支援します。たとえば、通常、諸宗教においてさまざまな形で述べられる節約や隠遁生活に関する宗教的な指示は、環境保護に直接関係はないものの、その保護に最も効果的な措置となることができます。
加えて、私たちは諸宗教において、たとえば動物にやさしく接したり、木を傷つけない、河川などを汚さないといった多くの戒律を実施しており、この戒律が環境保護のために考えるべき宗教的な源であることはは明らかです。イギリスの社会学者ギデンズは、伝統的な方法や、宗教の指示を活用することは、環境保護において効果的だとしています。ギデンズによれば、宗教は適切な環境に対する行動を提示しているということです。
イスラムは環境への対応方法に関する規則を有しており、人間は環境に対して責任を持っているとしています。イスラムはまた、人間は環境に対して責任ある対応を行い、その本質的な価値を公に認識すべきだと忠告しています。