May 26, 2018 21:17 Asia/Tokyo
  • 勧善懲悪
    勧善懲悪

人々の魂の健康は、社会の精神面での健康の確立に直接関係しています。、人々や社会の精神面での健康の維持に向け、イスラムが奨励している事柄の1つは勧善懲悪です。今回は、このテーマについて考える事にいたしましょう。

前回は、魂の健康の確立には、神に近づくために、人間の内面に秘められた全ての力や能力を互いに連携させる必要があることについてお話しました。また、こうした能力の連携とは、人間の物事の捉え方や趣向、秘めている能力により、結果的にその人が本当の意味での成長に向かうものでなければなりません。それは、それぞれの能力がうまく連携せず、バランスよく利用されなければ、その人は中庸でなくなってしまうからです。

例えば、神の哀れみや優しさという側面のみに注目する人は、この性質だけをより所として、神は哀れみ深い方であるから、僕たちを愛している、だから罪となる好ましくない卑劣な行動をやめる必要はない、という妄想にかられてしまっています。

一方で、こうした人々とは逆に、神の怒りのみだけにとらわれてしまうと、今度は必要以上に恐怖感が高まり、またもや正しいルートから脱線してしまいます。このため、何事も中庸を守らず、極端に走ることは人間の魂や精神の健康に好ましくない影響を及ぼします。

ですが、今回お話しようとしている内容は、人々の魂の健康が、社会の精神衛生の確立に直接影響するということです。そして、人々や社会の精神衛生、ひいては魂の健康を維持するために、イスラムで推奨されている価値観や適切な方法の1つがまさに、勧善懲悪なのです。

 

勧善懲悪とは、社会の精神衛生や魂の健康、心の安らぎといったニーズが確保されるよう、社会の構成員である全ての人々に努力を促すプロセスだといえます。

 

 

 また、勧善懲悪は非常に幅広く、特定の人々のみに限られません。イスラムの教えでは、勧善懲悪ほど重要な義務はないと言えます。これについて、シーア派初代イマーム・アリーは次のように述べています。

“神の道において行われる聖なる努力や善良な行いの全ては、勧善懲悪に比べれば、大海原における一滴の水のようなものである”

人間は神の前に、自分自身やその他の全ての存在物に対して責任を負っています。人間は神の僕であることから、宗教の先駆者たちが神の啓示により受け取り、聖なる書物や伝統の中で委託されている使命の全てを遂行することが義務付けられているのです。

イスラム教徒はほかの人々の行いに無関心でいることはなく、できる限り他人にも善良な行いを奨励し、悪事を戒めます。この責務は特に、より近しい関係にある人々に対しては、さらに重くなります。これについて、コーラン第66章、アッ・タフリーム章、「禁止」第6節では次のように述べられています。

“信仰心ある人々よ、人々と石、すなわち不信心者や偶像を燃料とする地獄から、自分と家族を守るがよい”

 

全てのイスラム教徒は、それぞれが責務を担っています。特に自分自身、神、さらには他人や自然との関係という4大関係における責務への注目は、人間が幅広い人格を持つとともに、そのほかの無生物や動植物とは大きく異なっていることを示しています。

「信仰心に目覚めた人々よ」という声に対する答えは、神の僕としての責務を受容することです。コーラン第102章、アッ・タカースル章、「蓄積」第8節では、神の全ての恩恵に対する人間の責務について、次のように述べられています。

“そして、あなた方は最後の審判の日に、現世で神から受けた恩恵について、確実に尋問を受けるであろう”

ここで述べられている「神からの尋問」こそはまさに、人間が請け負っている責務を受容する事にほかなりません。

 

アッ・タカースル章「蓄積」、第8節

 

社会に存在する人々の心と体の健康を維持する上で、きわめて大切な要素の1つは、個人や社会のさまざまな側面において勧善懲悪の基本構造に注目することです。イスラム初期、統治政体の一部で、この宗教的な義務を実施する監視組織があり、この組織が達成した偉業の1つとして、イスラム文明の確立・定着を挙げることができます。

実際に、勧善懲悪はあらゆる腐敗を消し去る河川の流れのようなものです。即ち、この河川にいかなる汚染物質が投げ込まれても、それはそのすぐ先で激しい流れにより洗い流されます。

イスラム教徒の社会環境も、河川のように澄んだものでなければならず、誰かがそこに汚染物質を投げ込んだならば、すぐさま社会がそれを探知し、除去する必要があります。そして、このことはまさに勧善懲悪によって可能となるのです。

このため、勧善懲悪は全ての人々の責務とされています。ですから、ある組織がこの主要な責務を受容しなかった場合には、それに無関心でいたり、神の御前での自分自身や他人の健康に関する責務を忘れたりしてはならないのです。

次回もどうぞ、お楽しみに。

 

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