8月 14, 2018 20:47 Asia/Tokyo
  • 船

昔々のこと。あるところに、働き者の商人がおりました。

昔々のこと。あるところに、働き者の商人がおりました。

この商人は、海を越えた向こうの国に色々な商品を持っていって、それを売りさばいて大きな利益を上げることを思い付きました。商人はたくさんの荷物を港へと運び、それを船に積み込みました。今回の旅には、信頼を寄せる弟子を一人連れていくことにしました。弟子は興味深そうに作業を見守っています。商人の荷物の積み込みが終わりました。商人と弟子も笑顔で船に乗り込みました。商人は、それまでにも幾度か、貨物船や客船であちこちの国に出かけたことがありましたが、弟子の方は、船で旅をするのは、今回が初めてでした。船が出発する前から、弟子はうれしそうに、船の上から見送りの人たちに手を振ったり、これからの旅に、わくわくと大きな期待を思い描いているようでした。

 

船が出発し、岸がだんだん遠ざかっていきました。弟子はあたりを見回し、少し怖くなりました。今や岸は遠く、目の前には広い海が広がっています。時々大きく波がうねり、船を揺らすようになりました。

 

突然、弟子は大きな恐怖に襲われ、こう思いました。

「なんてことをしてしまったんだ。パンもなければ水もない、船に乗るなんて、どうかしていたんだ」

 

弟子の行動を観察していた商人は、どうやら彼が怯えていることに気がつきました。そこで弟子の肩に手を置いて、やさしく言いました。

「海の旅は、本当に楽しくて愛すべきものだ。船で旅をしたことがない人は、最初は怖いかもしれない。中には具合が悪くなってしまう人もいるが、少しずつ、海の美しさと船旅に慣れて、それを楽しむことができるだろう」。

 

けれど、弟子の顔色は悪く、目は海ばかりを見つめ、船の柱にしがみついて、商人の言葉を聞く余裕もありません。商人は、弟子が具合が悪そうなのを見て、しばらく様子を見ることにしました。商人は、弟子の恐怖心も時間が経てばやわらいで、自分で状況を克服することができるだろうと考えたのです。

 

しかし、商人の見込みは大きく間違っていました。ほどなくして、弟子の叫び声が聞こえました。

「助けてくれ! 船に乗るなんて、私が間違っていた。私を岸に戻してくれ!」。

商人はあわてて弟子の肩をゆすって言いました。

「騒ぐものではない。気を確かに持つのだ。少し待てば、船の揺れにも慣れてくるだろう」

ところが、商人の言葉など、弟子の耳には入りません。弟子はなおも叫び続け、船を港に戻してくれと相変わらず訴えています。乗客たちが興味深そうに弟子を取り囲み、おもしろがって、彼をからかい始めました。弟子の醜態に我慢がならなくなった商人は、そこである計画を思いついたのです。

                         

船には、万一に備え、おぼれた人を助ける救助要員が乗り込んでいました。商人は、係の船員のひとりにこう話しかけました。

「私の弟子を助けるための準備をしておいてくれないか」

そして、相変わらず騒ぎたてている弟子のほうに近づくと、わざとけんか腰で言いました。

「こんな臆病な弟子など必要ない。今すぐ、お前を海に投げ込んでやる。自分で泳いで岸まで戻るがいい」

商人はこう言い放つと、弟子を船の上から海の中に突き落としてしまいました。まさか、こんな運命が待ち受けているとは夢にも思っていなかった弟子は、水の中で必死にもがきました。

 

ほどなくして、先ほど声をかけておいた救助係の男が海中に飛び込んで、弟子を引き上げ、船の甲板まで連れてきてくれました。弟子は、船の甲板が、海の中よりもよほど安全なことを知りました。そして、それからは、船の隅に座ってすっかりおとなしくなってしまったのです。事の一部始終を見ていた船の乗客たちは、商人の周りに集まって、口々に言いました。

「なんてすばらしい計画なんだ。私たちには考えも及ばないことだ」

 

商人は言いました。

「弟子を海に投げ込めば、彼も、船の上の方が、水の中で溺れるよりも安全だということに気づくと信じていた。彼はあの恐怖を体験しなければ、船のありがたさを理解できなかっただろう」

 

このときから、本当に困難な状況に陥らなければ、今与えられた恩恵の価値に気づくことのない人について、こんな風に言うようになりました。

 

「平穏のありがたさは、災難に巻き込まれて初めて分かる」