世界におけるイランの人々の役割(2)
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昔の戦争
前回は、イランの文化的な影響の地理的な範囲が、イスラム以前の時代には世界のおよそ半分に及んでいたことについてお話しました。また、サーサーン朝が崩壊し、イランの人々がイスラム教を受け入れたことから、この範囲は縮小しなかったのみならず拡大しました。イランの人々は、ウマイヤ朝時代とアッバース朝時代に重要なポストを獲得し、世界の最も遠い場所までその勢力範囲を広げたのです。
この時代に、イスラム教徒のイラン人が初めて足を踏み入れた場所のひとつに、スペインのアンダルシア地方があります。ここは7世紀の終わりから8世紀の初めまで、イスラム教徒が支配していました。文化的に躍動的な性質を持つイラン人も、スペインを平定したほかのイスラム教徒ともにこの地に入り、ほかのイスラム教の占領地と同じように、イスラム世界の境の警備や、この地の運営や宗教、学問の指導に参加しました。この時代には、数百人のイスラム法学者や高位の聖職者、コーラン解釈者やハディース学者、判事や総督、官僚がイラン東部のホラーサーン地方やそのほかの都市からスペインに入り、とりわけ南部のアンダルシア地方に定住していました。11世紀までは、スペインにイラン人の影響が及んでいたことを示す証拠が存在します。信用ある歴史資料によると、この時代には150人以上のイラン人のイスラム法学者が、スペインに住んでいたということです。
アッバース朝の信用を得ていたホラーサーン地方のイラン人は、アッバース朝時代の初期から、エジプトの他、モロッコなどの北アフリカ、そして現在のトルコの島々の政治、軍事において、重要な役割を担い、アケメネス朝以降イランの文化が再びエジプトに出現しました。イスラム以降の時代、イランの文化と文明を担ってきた人々は初めて、現在のマレーシア、インドネシアなどの東南アジアに赴きました。イランのイスラム的な文化は、インドネシアやマレーシアにおいても明確に見られます。なぜなら、この地域でイスラム教を広める人々にはイラン人が多く、イスラム教徒によってマライ語に翻訳された書籍の多くは、ペルシャ語の本だったからです。
イスラムがイランに流入した後、イランで発生した重要な変化のひとつは、イランの文化の中心がイラン高原の西部から東部に移ったことです。ウマイヤ朝時代、イランの中部、南部、西部には多くの文化人や思想家が住んでいましたが、これらの地域がアラブ人たちとの軍事的な衝突の中心であったことから、この時代、多くの人々がイランの北東部ホラーサーン地方や、中央アジア・トランスオクシアナに移住しました。この移住によりその後、これらの地域はイラン・イスラム文明の歴史において、特殊な形で繁栄したのです。
トランスオクシアナはイスラム初期、イランの人々が居住する地域で、純粋なイラン文明圏とみなされていました。しかし、この地域を流れるシルダリヤ川流域はイスラム教徒でない好戦的な部族が居住し、常にこの地域に対する攻撃や略奪、破壊を行っていました。ホラーサーン北部やトランスオクシアナはイスラム以後の最初の数百年間、アジアにおけるイスラム世界のほぼ北限であるとみなされていました。イラン人のイスラムへの改宗後、ホラーサーンとトランスオクシアナはこの境を守り、異教徒のトルコ系の民族と戦う責務を負っていました。
イスラム初期の数百年間、トランスオクシアナの境に位置するイスラム教徒はトルコ系の部族と対峙していました。これらの部族ははじめはイスラムと戦っていたものの、結果的にイスラム教に改宗し、次第にイスラム教徒の統治を受け入れました。しかも、彼らの一部は(イスラム圏の)境を越えたイスラム教徒の聖戦の中で捕虜となり、イスラム教徒の統治者に仕える戦士となったのです。
新たにイスラムに改宗したトルコ系の人々の優れた特徴は、彼らの戦士としての力と大胆さ、敏捷性でした。多くのイスラム教徒の統治者はすぐに、彼らの戦闘力を見抜き、自分たちの兵士を信用していないことから、この好戦的なトルコ系の人々を引き寄せました。イスラム教徒の統治者はいずれも、トルコ系の軍事奴隷を自分たちの騎士団として組織し、特にトルコ系の軍事奴隷やその子孫を私兵としました。イスラム社会で最大の利益を得たのは、これらの軍事奴隷であり、彼らはその軍事力のほか、最初は自分たちの主に対する忠誠心を示したことから、次第に社会の上層部に上りつめ、最終的には総督や君主にまでなったのです。
しかし、イスラム教徒の統治者に対するトルコ系の軍事奴隷の忠誠心は、それほど長くは続きませんでした。それというのも、彼らは軍事的に高い地位に就き、自分たちには相当な力があることに気づいてからは、統治に干渉し、政権を転覆させるほどの影響力を行使したからです。アッバース朝の8代目カリフ・ムウタシムの代から、トルコ系の戦士がイスラム軍兵士として使われるようになったといわれています。しかし『イラン・ケンブリッジ史』という文献では、現存する資料を論拠として、アッバース朝以前にも、イラン人の王族やトランスオクシアナのイスラム教徒、現在のタジキスタンやウズベキスタンに居住していたソグド人が、トルコ人を傭兵や国境警備兵として雇い入れていたとされています。後の9世紀から10世紀にかけて栄えたサッファール朝や、サーマーン朝時代のイラン人の総督も、トルコ系の人々を親衛隊として利用する政策を採っていました。ガズナ朝の最盛期の君主マフムード・ガズナヴィーの父、サブクテギーンもサーマーン朝の軍事奴隷の出身で、彼は軍事力によりホラーサーン地方の軍事司令官となり、初めてイランにトルコ系の王朝を打ち立てました。ガズナ朝は、イラン文化圏において、過去の王朝のように比較的広大な1つの帝国を築くことに成功したのです。ガズナ朝の歴代の王たちは、軍事奴隷の出身でありながら、イラン人の家系出身であるかのように偽装しようとしました。この帝国で重用されていた多くのイラン人の学者や芸術家は、この世界的なトルコ系の王朝に見切りをつけ、彼らはイランから大変離れた場所の文化と接するようになりました。こうした学者の1人に、アブーレイハーン・ビールーニーがおり、彼の著作『インド誌』は旅の中で記された傑作とされています。
ガズナ朝時代の終わりまで、トルコ系の人々がイランの王朝に及ぼす軍事、政治面での影響は集団的ではなく、個人的なものでした。彼らは個人としては高い地位に着き、しばしば軍事司令官や君主にまで上り詰めました。しかし、こうした躍進を遂げる中で、自らの出自である家族や、本来属する部族とのつながりの多くを断ち切り、イラン・イスラム的な文化を受容することで、彼らの多くはペルシャ語やイラン文化になじみ、マフムード・ガズナヴィーのように、ペルシャ語の詩や文学の拡大・奨励をも目指すようになったのです。彼らは自分の部族からの支援を受けられなかったため、部族的・民族的な所属や関係が一切無い者として、イランの王たちのように業務を行いました。中には、マフムード・ガズナヴィーのように、自分の家系図をイラン系の出身であることを示すよう偽造する者もいたのです。
トルコ系部族によるイラン高原への集団的な侵攻は、セルジューク朝のオグズ族によって始まりました。この時代、トランスオクシアナやホラーサーン北部のトルコ系民族の多くがイスラム教に改宗しており、もはやイスラム教徒の軍がこの地域に対して、さらに遠征を行わなければならない理由はなかったのです。その結果、トランスオクシアナの境を守る軍営地は次第に取り払われ、ここでトルコ系のイスラム教徒がイラン高原に侵入する機会が生じました。イスラム教に改宗したセルジューク朝のトルコ系民族は、ガズナ朝の支配下での牧草地の少なさと生活苦を理由に、侵略者から北部の国境を守る代償として、牧草地を求めたのです。トランスオクシアナにおけるガズナ朝が弱体化し、この王朝の首都がインド文化圏との境にあった町に移されたため、彼らにとって首都ははるか遠くの町となってしまいました。このため、セルジューク朝が権力を握り、トランスオクシアナやハーラズムという、文明化され繁栄した地域に対する圧力を強化し、絶え間ない攻撃や略奪により、人々が居住する地域を脅かしていたのです。
セルジューク朝をはじめとするトルコ系部族が侵入する前、ハーラズム地方やトランスオクシアナはイランの人々が住むイラン文化圏の一部で、イラン系の言語であるソグド語やハーラズム系の言葉が広く使われていました。トルコ系の民族が完全に統治権を掌握する前、さらにはセルジューク朝においても、この地域ではハーラズム系の言葉が口語、文語の双方において普及していました。セルジューク朝は最終的に、繰り返しこの地域を攻撃し、次第にこの地域の各都市を制圧しました。そしてついに、ガズナ朝の王マスウードを敗北に追い込み、広大なイラン高原の支配者となったのです。
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