9月 14, 2019 14:52 Asia/Tokyo
  • ペルシャ語
    ペルシャ語

ペルシャ語はサーマーン朝時代、民族語と見なされていましたが、イランのトルコ系の為政者によって公用語となりました。また、イスラム世界の様々な人々や文化のなかで使われている語彙や概念を受容することができたため、国際語としての力を示したのです。12世紀には、広大なイスラム世界の多くの地域が、イランの文化の影響を受けていた、トルコ系王朝の軍事的、政治的な支配下に置かれました。これらの為政者により、ペルシャ語は中国からインド、現在のトルコに当たる小アジアまで広がり、最も権威のある国際語の1つとなりました。ペルシャ語の影響は、インドといった一部の地域にまで及び、そうした地域の詩人や作家がペルシャ語による作品を世に送り出していました。

13世紀から15世紀にかけてのティムール朝時代には、ペルシャ語とトルコ語の両方に精通した詩人や作家が現れました。現在のアフガニスタン北西部の町・ヘラートに住んでいたアミール・アリーシーリー・ナヴァーイーは、ペルシャ語とトルコ語の両方で詩を詠んでいます。小アジアは、セルジューク朝時代からペルシャ語が広まっている地域の1つとなりました。このルーム・セルジューク朝は小アジアに入り、ここを拠点とする前に、イランのセルジューク朝と同じようにイラン文化とペルシャ語の影響下に入り、ペルシャ語を正式な書き言葉としていたのです。当時、トルコ語の書き言葉は、まだこの地域では確立しておらず、地域のトルコ系の人々の日常会話はトルコ語でしたが、彼らの公用語、また文学・行政用の言語はペルシャ語でした。ルーム・セルジューク朝の歴代の王はケイゴバード、ケイホスローといったペルシャ語の名前を持ち、ペルシャ語で流暢に会話を行い、読み書きを行っていました。これまでイランの、そして小アジアのセルジューク朝の宮廷内のからは、トルコ語の文書や史料は発見されていません。

世界的に著名な13世紀の神秘主義詩人・モウラヴィーが、生まれ故郷である現在のアフガニスタンの都市バルフから、ルーム・セルジューク朝の首都コンヤに移住する際、その道中に通ったいずれの町でも、彼の話す言葉や文化、習慣を知っている人々に会いました。コンヤは当時のイラン文化圏の西端にあたり、バルフからは大変離れていましたが、モウラヴィーにとっては大変に親しみのある環境でした。彼は、このため自分の母語であるペルシャ語で詩を詠み、またこの地で彼の詩を聞く人もペルシャ語を良く知り、理解していました。

イランのセルジューク朝の分家であり、同じオグズ族系であるオスマン朝の為政者の一族はイランのサファヴィー朝と同様に、或いはそれ以上にペルシャ語の影響を受けました。多くのオスマン朝の為政者はペルシャ語とペルシャ文学に愛着を抱き、多くのイラン人と同じように14世紀のイランの詩人、ハーフェズの詩集で占いを行い、願いが実現した暁には、イラン南部のシーラーズにあるハーフェズ廟に供え物を届けたのです。オスマン朝末期の為政者の1人であるアブデュルハミトが、ハーフェズ占いを行った際、ハーフェズの詩にはアヤソフィアに礼拝に行くのを控えるよう記されていました。彼がそれに従ったところ、彼を乗せる予定の馬車が、その道の途中で爆発に巻き込まれたのです。これにより命を救われたアブデュルハミトは、ハーフェズ廟に大変高価な供え物を送ったということです。

20世紀の歴史家アーノルド・トインビーは、次のように考えています、「オスマン朝のセリム1世が完全にイラン文化とペルシャ語の影響を受け、ヨーロッパの半分を支配していた時代、イランの文明は事実上ヨーロッパの半分に広まっていた。また、エジプトとその町カイロを支配下に置いたとき、イラン文明は事実上アラブ文明を制圧した。なぜなら、カイロの陥落は、第4回十字軍のコンスタンチノープル征服と同じ位重要な出来事と見なされるべきだからである」 トインビーによると、サファヴィー朝のイスマイール1世とオスマン朝のセリム1世は、ともに共通のイラン文明の教育を受けてきたということです。セリム1世はペルシャ語で詩を詠み、またオスマン朝の宮廷ではペルシャ語が広く使われていました。

14世紀のオスマン朝の君主バヤズィト1世は、イラン人の詩人やイスラム法学者、歴史家を厚遇し、彼らに褒賞を与えていました。また、メフメト2世はコンスタンチノープルを陥落させ、略奪を行った後、イランの詩人ハーガーニーの詩をペルシャ語で暗誦していたということです。さらに、オスマン朝の宮廷詩人は、偉大なペルシャ語詩人を模倣していました。たとえば、宮廷詩人のベヘシュティーはオスマン朝の王子を讃える詩の中で、ネザーミーの『五部作』を模倣しています。また16世紀にスレイマン1世に使えた詩人のフェルドゥースィーは彼の治世の歴史を、今から1000年ほど前のガズナ朝時代の大詩人・フェルドゥースィーの『王書』に倣い、半分を散文体で、半分を韻文で吟じました。

オスマン・トルコの詩や散文は、ペルシャ語を話すトルコのイラン系の人々によって基盤が作られました。トルコ人はペルシャ語文学から、思想だけでなく、この思想をあらわす芸術的な表現を借用しました。また、テーマや思想の選択だけでなく、表現法においても、ペルシャ文学の影響を受けていたのです。トルコ語で初めて詩を詠んだ人物はモウラヴィーの息子、バハーオッディーンでした。彼はルーバーナーメ、すなわち『キツネの書』という詩集をペルシャ語で執筆し、モウラヴィーの『精神的マスナヴィー』の形式を用いて、156の対句をもつトルコ語の詩をこれに収め、トルコ文学を始めたのです。トルコ文学は、15世紀から100年間にわたり、ジャーミーやアリーシール・ナヴァーイーの影響を受けました。また、17世紀のサーイェブ・イスファハーニーやショウキャトといったイラン詩人も、トルコ語詩に大きな影響を与えました。オスマン朝でトルコ語により詩を詠んでいた最初の詩人たちは、ペルシャ語も理解し、ペルシャ語でも詩を吟じていました。例えば、エマードッディーン・ナスィーミーは、アラビア語とペルシャ語で詩を吟じていましたが、彼の主な詩集は、トルコ語によるものです。

ペルシャ語とペルシャ語詩は小アジアだけでなく、オスマン朝の支配下にあったバルカン半島にも広がりました。今から400年以上前の、現在のボスニア・ヘルツェゴビナの研究者、スーディー・ボスナヴィーによるハーフェズの詩の解釈は、最も信頼性の高い解釈の一つとされています。ス-ディーはオスマン朝の属州の一つだったボスニア出身の学者のひとりで、ペルシャ語とアラビア語に精通し、オスマン朝の宮廷の召使いたちの教師を務めていました。

東トルキスタンを治めていたチャガタイ・ハン国のモンゴル系トルコ人は、ペルシャ語の知識があり、16世紀のチャガタイ・ハン国の王子、ヘイダル・ミールザーはペルシャ語で、中央アジアのモンゴル史に関する歴史書を記述しました。スペイン中部の町トレドでは、イスラム教徒の支配下にあった時代には、ペルシャ語やペルシャ語文化が大きな信用を得ており、ファーラービーやイブン・スィーナーなど、その他のイラン人学者の本が高値で買い取られ、この町の大きな図書館には数千冊のペルシャ語が収蔵されていた、とされています。

現存する史料によると、イラン人が中国に初めてイスラム教を伝えたことは間違いない、とされています。フランスのある歴史学の教授は、中国のイスラム教徒のほとんどはイラン系民族の子孫であり、彼らはモンゴル時代以前には自発的に中国に移住し、またモンゴル時代以後は中国に強制的に移住させられた、としています。いまだ中国のイスラム教徒は、宗教的な儀式を行うのに、ペルシャ語の語彙を多用しているのです。

歴史的な証拠から、ペルシャ語は13世紀から、コミュニケーションや概念の面での可能性や受容力により、広大なイスラム世界の国際語として数世紀の間、世界のイスラム教徒の伝達手段、また文学的、学術的かつ行政用の言語とされ、この比較的長い期間に、世界の文明化した地域の多くにおいて話され、聞かれ、書かれていたことが明らかになっています。ペルシャ語はイスラム世界において、中世ヨーロッパのキリスト教の世界におけるラテン語のような役割を果たしていました。

 

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