11月 19, 2019 13:13 Asia/Tokyo
  • アブルヴァファー・ブーズジャーニー
    アブルヴァファー・ブーズジャーニー

今回は、10世紀のイランの天文学者で、数学者でもあるブーズジャーニーをご紹介し、この偉大な学者の生涯と業績、残した著作などについて考えていくことにいたしましょう。ブーズジャーニーは、特に幾何学や三角法、天文学などの分野での進歩に大きく貢献しています。

アブルヴァファー・ブーズジャーニーは、西暦940年9月11日に、現在のイラン北東部ホラーサーンラザヴィー州の都市トルバテジャームの近郊にあるブーズジャーンで生まれました。彼の名は、10世紀のシーア派イスラム教徒の学者イブン・ナディームの著作『目録の書』にも出てきており、このことはブーズジャーニーの学問的な地位の高さを示すものです。その理由として、彼がイブン・ナディームや、イランの著名な天文学者アブーレイハーン・ビールーニーと同時代に生きていたことが挙げられます。

ブーズジャーニーは、生まれ故郷のブーズジャーンにおいて、当時の卓越した数学者であった、自分の父方と母方の2人のおじの下で、初歩的な数学を学びました。彼は、わずか20歳の若さで、当時の著名な大学者たちの下で学問を習得するため、現在のイラクのバグダッドに赴き、そこに滞在しました。また、ブワイフ朝の為政者シャラフォッドウレ・デイラミーに仕え、この為政者がバグダッドに創設した天文台で活動を行っていたのです。

イギリスの著名な歴史家ジョージ・サートンは、10世紀の後半を「アブルヴァファー(ブーズジャーニー)の時代」と呼んでいます。この時代に、ヨーロッパは民族同士の戦いや対立、分散に巻き込まれていました。また、封建制度や中世カトリック教会の教えが支配し、学術的な進歩の道は全て塞がれていたのです。またこの時期、バグダッドのカリフ制は大きく揺らぎ、人々は貧困と不安の中で暮らしていました。さらに、中国、インド、そして日本も、学術面では停滞していました。

 

こうした状況の下、イランはそれとは異なる様相を呈していました。ブーズジャーニーが生まれた頃は、イラン系の初のイスラム王朝であるサーマーン朝がイラン北東部のホラーサーン地方を支配し、この王朝はイラン的な伝統やペルシャ語文学に関心を持っていました。さらに、サーマーン朝はほかの宗教に対しても寛容でした。このことは、学者が安心して学問に打ち込み、学問が発展する下地となりました。この時代には、書物の販売部数が増加し、広大なイラン文化圏には大規模な図書館がいくつも造られ、学問を教えるための大きな教育機関ができました。この時代にはさらに、アブーレイハーン・ビールーニーやイブン・スィーナーといった偉大な学者が生存していたのです。この時代のイランの数学者は、単にギリシャの数学書を翻訳し、注釈するのみならず、数学の発展プロセスにおける1つの完全な時代を形成したのでした。

 

ブーズジャーニーは、幾何学や三角法、算術、応用幾何学を初めとする数学や天文学の発展に大きな役割を果たしました。また、天文学や数学の分野ほど名声を博してはいないものの、ブーズジャーニーには音楽の分野の知識もありました。こうして彼は、算術家、そして幾何学者(幾何学を知る技術者)という異名をとったのです。

ブーズジャーニーは、バグダッドにやって来て数年も経たないうちに、当代切っての著名な学者の1人となりました。彼は、この地において天文学の研究活動や天体観測の傍ら、法廷にも出仕しました。また、一定期間の間はバグダッドにある病院の管理責任者も務めています。さらに彼は、バグダッドの学者はもとより、バグダッド以外のイランの学者らとも、書簡による学術的な交流を行っていました。そうした学者には、当時の数学者アブー・アリー・ホブービー、またイランの偉大な天文学者アブーレイハーン・ビールーニーを挙げることができます。アブー・ハイヤーン・トウヒーディーや、アブーナスル・エラーグといった思想家たちは、ブーズジャーニーをシェイフ、即ち長老と呼んでいました。

 

ブーズジャーニーは、天文学者ビールーニーとは(地理的に離れてはいても)学術面で共通した事柄を考えていました。例えば、ビールーニーが現在の中央アジア西部のホラズム地方に滞在していたときには、月食の同時観測を行うため、バグダッドにいたブーズジャーニーとは、異なる2つの地点で行われた観測の結果を互いに比較する約束をしていました。ブーズジャーニーは、『ユークリッド言論』やディオファントスの『算術』、プトレマイオスの『アルマゲスト』といったギリシャの数学者、そしてフワーリズミーの『約分と消約の計算の書』などのイランの数学者の著作の多くについて注釈書を執筆しており、自らも幾何学や三角法の分野で数多くの新たな概念を提唱しています。

ブーズジャーニーは、三角形の高さが分からなくともその三つの辺の長さを利用して、三角形の面積を算出できる「ヘロンの公式」に相当する、三角関数の公式を明らかにしました。しかし、三角法における彼の最も重要な功績としては、タンジェントの概念を導入したことが挙げられます。

 

ブーズジャーニーの主な著作としては、現在まで4つのものが残っています。まず、『算術家と書記に必要な算術』、そして『職人が必要とする幾何学の実践』の2つがあります。前者はプトレマイオスの天文学書『アルマゲスト』に関するもので、後者は実践的な幾何学に関する内容です。この2つの著作は、応用数学の典型的な実例とされています。

ブーズジャーニーは、『実践的な計算法』という著作において、最初の2つの章を純粋な議論に当てており、第3章から第7章までにおいては、理論的な数学と応用数学の融合を提唱しています。歴史的な資料から、この著作が執筆された年代は、西暦936年から983年の間であると言えます。というのも、ブーズジャーニー自身がこの著作を、ブワイフ朝の為政者アズドッドウレ・デイラミーのために執筆したと述べているからです。彼は、この著作の第1章において、理論的な数学を検討し、自らの発見や割り算に基づいた各種の分数とその計算法、特別な法則や補助的な表を使用しての、部分分数の分解について述べています。また、それまでの方法に比べてより迅速に分数を約分できる方法を編み出しました。さらに、この著作の第2章では、イスラム世界の数学史上初めて、負の数が使われており、その説明のために負債という概念が使用されています。

『幾何学的な実践』という著作ではまた、最初に幾何学の構造に必要な手段について述べられており、続いて幾何学の構造上最も単純な命題を説明し、そしてより複雑な図形について説明しています。ブーズジャーニーは、この著作の全ての箇所において、論拠と複数の解法により命題を提示しており、問題を解く自らの方法の学問的な応用にも注目しています。

ブーズジャーニーはまた、『幾何学的な実践』という著作において、空間図形にも注目しています。特に、球体や正多面体の作図についても多くの問題を解決しています。もっとも、彼は刺繍やじゅうたん製造、化粧タイルの製造にも応用される幾何学的、装飾的な図形をも忘れてはいません。

ブーズジャーニーのもう1つの傑作は、プトレマイオスの天文学書『アルマゲスト』に基づいた著作です。この著作は、一部の歴史家の見解とは異なり、プトレマイオスの著作を新たに書き下ろしたものではありません。この著作は現在残ってはいないとされる、ブーズジャーニーの天文表である可能性が高いとされています。しかし、ビールーニーはブーズジャーニーのこの著作が、2つの異なる執筆作品であると考えています。ブーズジャーニーは、アルマゲストと呼ばれるこの著作において、天体の動きを説明するために必要な事柄を導入しており、実際にこの著作は三角法の完全な基盤を打ち立てたと言えます。彼のこの功績を称え、月のクレーターの1つはアブルヴァファーと命名されています。偉大な学者ブーズジャーニーは、997年ごろにバグダッドでこの世を去りました。

 

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