イランの名声、世界的な栄誉
ソフラヴァルディー(2)
今回も、前回に引き続き、12世紀のイランの偉大な神秘主義哲学者で、イスラム哲学の学派の1つである照明学派を興したソフラヴァルディーをご紹介することにいたしましょう。
前回は、イランの神秘主義哲学者シェイフ・シャハーボッディーン・ソフラヴァルディーが、1150年から1155年ごろの間に、現在のテヘラン西方のザンジャーン州にあるソウフラヴァルドという小さな村に生まれたことについてお話しました。また、彼がその短い生涯を学問にささげ、イラン北西部の町マラーゲ、中部の古都イスファハーンはもとより、トルコのアナトリア、シリアのアレッポにて、偉大な巨匠たちの教えを受けたことについてもお話しいたしました。
ソフラヴァルディーは、『照明哲学』という著作を著したこと、アレッポのイスラム法学の学派の1つであるハンバル派の学者と論争を行ったことにより、非常に名声を博し、セルジューク朝の宮廷から注目を集めていました。そのために、彼は彼らの嫉妬と敵愾心を招くことになりました。その結果、アイユーブ朝サラジンは、自分の息子であるマレク・ザーヘルにソフラヴァルディーを殺害するよう命じます。しかし、マレク・ザーヘルがこの命令の遂行を怠ったため、アレッポのイスラム法学者たちは、アイユーブ朝サラジンに宛てて次のような書簡をしたためました。それは、お前の息子マレク・ザーヘルがソフラヴァルディーを自分の下に引き止めておけば、それはやがてマレク・ザーヘルの信条を汚して彼を堕落へと導き、彼が宮廷から追放されれば他のどこに行っても、民心を惑わし、腐敗させるだろうというものでした。そこで、サラジンは再び息子のマレク・ザーヘルの下に使いを出し、ソフラヴァルディーを始末しなければ、アレッポの占領支配権を没収すると脅迫したのです。
こうして、ソフラヴァルディーは1191年に殺害されました。ソフラヴァルディーの愛弟子の1人シャフルズーリーによりますと、ソフラヴァルディーがどのようにして殺害されたかについては様々な説があるということです。一部の人々の間では、ソフラヴァルディーは監獄の中で水も食料も与えられないまま長期間にわたり放置され、獄中で餓死したと推測されています。また、中には彼自身が飲食を拒んで餓死し、神のもとに召されたと考える人もいます。さらには、彼は窒息死させられたとする人や、剣により殺害されたとする説、そして城砦の上から突き落とされ、焼き殺されたとする説も存在します。
伝えられるところでは、為政者マレク・ザーヘルはソフラヴァルディーを殺害した後、強く後悔し、彼の殺害を命じた人々全員に対し追放命令を出し、彼らの資産をその代償として差し出させ、貯蓄を差し押さえたということです。多くの研究者は、ソフラヴァルディーの死没は彼の生涯と同様に深い謎に包まれていると考えています。ソフラヴァルディーの生涯に関しては、ごく僅かの書物以外には資料は全く残されていません。ソフラヴァルディーの愛弟子の1人で彼の提唱した学派を擁護したシャフルズーリーは、自らの恩師の生涯や行状などについて、次のように述べています。
「ソフラヴァルディーは、托鉢僧のような質素な生活を営んでいた。彼は、自らの欲望を抑制し、凡人にはとても不可能と思われる厳しい修行を行っていた。彼は、週に1回だけ、しかもごく質素な食事をとるのみだった。彼の行っていた宗教的な行為の多くは、空腹を耐え忍び、徹夜で夜を明かし、神の世界に浸り熟考することであった。彼は、音楽も好み、非常に寛大な人柄であった」
古い時代の風潮においては、斬新な内容を発言したり、それまでにない事柄の研究を始めたりした人は破門、あるいは追放されるのが普通でした。こうした状況は、啓蒙的な考えを持つイランの学者や思想家、哲学者の多くの状況に関する記述からも見て取れます。例えば、中世イランの偉大な医学者イブン・スィーナーは、一部の人々の間では無神論者、異端児とみなされていたということです。
一部の研究者は、ソフラヴァルディーの殺害の謎の解明に努めてきました。一部の人々は、ソフラヴァルディーを民族主義的な人物と見なしており、7世紀のアラブ軍の侵入による、アラブ人の支配の打倒を目指したシュウビーア運動のメンバーの1人だとされたために、彼が最終的に殺害されたと考えています。しかし、この学説は多くの思想家の批判と反対を受けており、彼らはこの学説を、この偉大な哲学者の作品や思想に対する、いびつで誤った解釈によるものと見なしています。
さらに、一部の人々はソフラヴァルディーが宮殿に仕える哲学者を支配者と見なす政策を支持する人物だったと見なしています。この考えは完全に、アイユーブ朝サラジンやバグダッドの為政者たちにとって侮辱的なものでした。ソフラヴァルディーは、自身の著作である『照明哲学』の導入部において、この思想を擁護しており、またこの思想はマレク・ザーヘルが召抱えるイスラム法学者たちにとっては懸念の元凶でした。このため、彼らはソフラヴァルディーを暗殺する決意を固めたのです。
ソフラヴァルディーの生涯における重要な点は、彼の生きていた時代が、イスラム教シーア派の一派とされるイスマイリ派の運動が盛んに行われていた、非常に重要な時期にあたるということです。この時代には、一世を風靡した最も著名な2人のイスマイリ派の人物が政権を掌握していました。その1人がハサン2世であり、祝祭の到来を立ち上がりの日、そしてイスラムの表面的な戒律を破棄する日として宣言しました。もう1人のイスマイリ派の為政者は、ヌーロッディーン・モハンマド2世であり、彼は自らの著作や持論において、哲学に基づくイスマイリ派の思想の基盤を打ち立てました。研究者らの間では、本当の哲学を求めていたソフラヴァルディーのような鋭敏な知能と好奇心を持つ若者が、イラン北西部のマラーゲから、イスマイリ派の活動の主要な拠点である、そのさらに東のガズヴィーン、その南方にあるレイ、そのさらに南のイスファハーン、そして国境を越えてトルコ東部のマルディン、そしてシリアのアレッポに向かう旅の途中で、イスマイリ派の伝道者たちに出会い、親睦を深めたのではないかと考えられています。
ソフラヴァルディーは、その短い生涯においておよそ50の著作や論文を残していますが、その一部は出版されないままとなっています。ソフラヴァルディーの著作に関する最も主要な研究は、フランスの東洋学者ルイ・マシニョンや哲学者アンリ・コルバン、そしてイランのセイエド・ホセイン・ナスルにより行われています。彼らがソフラヴァルディーの著作について説明している最も重要な内容は、照明哲学に関する2つの事柄であり、その1つはソフラヴァルディーの門下生の1人シャフルズーリーが、もう1つは13世紀のイランの学者ゴトボッディーン・シーラーズィーが執筆したものです。
文学者や作家は、常にソフラヴァルディーの執筆スタイルを賞賛しています。ペルシャ語による彼の散文形式の特徴は、文章構成が斬新であることです。また、アラビア語による彼の作品も、よく練られているとともに、コーランの節やイスラムの伝承ハディースによる修飾が見られます。ソフラヴァルディーのペルシャ語による作品を校正し、出版したセイエド・ホセイン・ナスル博士は、次のように述べています。「ソフラヴァルディーの作品は、ペルシャ語の散文による傑作の中でも、イランの文学史上のすべての時代の哲学的な散文作品の最高の例である。おそらく、1000年に上るペルシャ語の散文学の歴史において、哲学的な内容をこれほど流麗に書き記した人物はいないといってよいと思われる」
ソフラヴァルディーが、ペルシャ語による作品の中で伝えようとしていることは、一様ではありません。例えば、『光の書』、『支えの啓典』などの作品では、主にイブン・スィーナーのアリストテレス学派に従った学説が述べられていますが、神や霊魂に関しては単に照明哲学について述べられています。また、学説的な議論の中にも、謎めいた比ゆ的な物語に触れ、そうした議論に現実性を持たせて理解しやすいものにしています。
ソフラヴァルディーは、神秘主義的な内容の短編物語も残しています。しかし、彼はこれらの物語において、単に哲学や叡智の全てを教えようとしたのではなく、読者に物語の中のある特別な状況に気づかせようとしています。即ち、ソフラヴァルディーはそうすることで照明哲学の原則に沿った生活を送っている人の現実に、読者を近づけようととしているのです。
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