イランの名声、世界的な栄誉(1)
オルフィー・シーラーズィー
今回は、16世紀のサファヴィー朝時代の詩人、オルフィー・シーラーズィーについてお話しましょう。
オルフィー・シーラーズィーの生涯は短かったものの、大きな影響を与えた詩を数多く作りました。シーラーズィーはインド様式、あるいはイスファハーン様式のペルシャ語詩の第一人者の一人です。
オルフィー、つまりジャマーロッディーン・セイエディーこと、モハンマド・ジャマーロッディーンは、短い生涯の中で価値ある作品を残した詩人です。
オルフィー・シーラーズィーはイラン南部のシーラーズで生まれました。父親はゼイノッディーン・アリー・ボッルウといい、シーラーズの町の警察官のような役職にありました。オルフィーはシーラーズで文学、医学、論理学、哲学、音楽を学びました。彼は絵画やナスフ書体による書道などにも通じていました。
16世紀、サファヴィー朝のアッバース1世の時代、文学活動はある程度盛んに行われていました(意訳)。このころ、オルフィーは大変若く、詩を作ることで、シーラーズの町の文学者のサークルに参加することになりました。シーラーズィーは詩によってたちまち名声を博し、同郷のものたちによって、オルフィーというペンネームがつけられました。
オルフィー・シーラーズィーは、アーレフ・ラーヒージー、ゲイディー・シーラーズィーといった人物と同時代の人でした。オルフィーは若くても、当時の偉大な詩人とみなされていたのです。彼は、生涯にわたる芸術とその作品が死後においても影響力を持った、稀有な人物だったのです。
シーラーズィーがまだ24歳にもなっていないころ、シーラーズの町で天然痘が流行し、彼もこれにかかりました。彼の顔は天然痘の影響で醜く変わり、同郷の人でも彼の前から逃げ出すほどだったといわれています。文芸評論家は、彼が極端な形で高慢になったのは、このためだとしています。
シーラーズィーは26歳のとき、サファヴィー朝の弁士や文学者などのように、サファヴィー朝時代のイランの社会的状況が原因で、インドに渡りました。この時代、サファヴィー朝の宮廷は以前のように詩や文学の中心ではなくなりました。一方、インドの宮廷では、文学者や詩人を受け入れており、文学活動が盛んに行われていました。この時代、ティムールの子孫とされるムガル朝の一族がインドを支配しており、アクバルやジャハーンギールといった皇帝は、ペルシャ語詩人に目をかけていました。このため、ペルシャ語詩人はインドの宮廷に移っていきました。
シーラーズィーはインドに渡り、詩人のファイズィー・デカニーと親友となりました。ファイズィーはシーラーズィーを受け入れ、彼を支援しました。シーラーズィーが幸運だったのは、この人物がほかの詩人を受けいれていたことであり、もし彼らに親切にされなければ、その専門を開陳できなかったでしょう。
ファイズィーはシーラーズィーを暖かく宮廷に迎え入れましたが、後にシーラーズィーの意地の悪さや傲慢さにより、この友情関係は崩れます。彼は年齢を重ね、特に天然痘にかかり醜くなったことで、言葉が辛らつになり、自身を優れた存在とみなしたばかりか、ハーガーニーやネザーミーといった偉大な詩人よりも自分は優れているとみなし、このため、彼と同じ時代の詩人たちを悩ませることになりました。
シーラーズィーはファイズィーによりムガル朝の皇帝アクバルの宮廷に仕えるようになりました。当時の優れた詩人との競争により、彼の詩は大幅に進化し、実際、第1級の詩人であっても、彼に嫉妬しました。この嫉妬により、シーラーズィーは毒を盛られ、1590年、下痢が原因で死亡しました。彼は現在のパキスタン・ラホールに30年間埋葬されていましたが、後に彼の遺体はイラク南部のナジャフに移送されました。
イランの名声、世界的な栄誉はIRIBラジオ日本語からお送りしています。今夜は16世紀の詩人、オルフィー・シーラーズィーについてお話しています。
サファヴィー朝の時代、抒情詩も新たな様相を示すようになりました。当時の詩人は、過去の詩人の模倣を避け、新たな形式を発明しました。これは後にインド様式、あるいはイスファハーン様式とされ、シーラーズィーのような人物により生まれ、発展したのです。
シーラーズィーは短い生涯の中で、およそ6千の対句を含む詩集を発表しましたが、当時から散逸してしまい、数年後に別の詩集を編纂し、これは彼の死後出版されました。シーラーズィーは頌詩や抒情詩、2つのマスナヴィー形式の詩も作り、『ホスローとシーリーン』などの、12世紀のペルシャ語詩人ネザーミーの作品に応える形の詩によって名声を博しました。イギリス近代のイラン学研究者ブラウンは、著書『イラン文学史』の中で、次のように語っています。
「シーラーズィーは当時のもっとも有名な、人々に賞賛された詩人であり、16世紀における著名な3人の詩人の一人に挙げられる」
シーラーズィーの詩を見てみると、彼が各時代においての詩の共通の原則の多くを変えてきたことがわかります。多くのシーラーズィーの詩はある共通点が存在しますが、それは言葉や意味による従来の形式や慣習に反していたことです。これは、言葉や概念の論理的な形式の破壊ともいえます。
このようなことは以前、一般的な神秘主義文学でも行われていました。一般的に広まっていた神秘主義詩の多くでは、概念や示唆に価値を置き、詩の点では慣例に従いませんでした。シーラーズィーも、これを知っており、自分の詩の中でこれを利用したのです。
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