イランの名声、世界的な栄誉
モハンマド・ナジーリー・ネイシャーブーリー(3)
今回は、前回の続きとして、16世紀から17世紀にかけての詩人、ナジーリー・ネイシャーブーリーについてお話しすることにしましょう。
ナジーリーはペルシャ語詩における歴史的な形式を築き上げた人物とされており、現代詩など、後の時代の詩に深い影響を与えた詩人でした。また、当時における最も大衆的な詩人の一人とみなされており、彼の詩には、人々の日常的な会話に出てくる表現が用いられていました。今夜は引き続き、この詩人の特長についてお話することにしましょう。
ナジーリーは16世紀後半、イラン北東部のネイシャーブールに生まれ、この町で初等教育や文学を学びました。彼は大変若い頃から、詩により名声を得ており、それはイラン北東部を中心としたホラーサーン地方を越えて響き渡っていました。大変若い頃に、自分の詩の能力を試すため、イラン中部のカーシャーンに渡り、詩のサークルに参加し、名声を得ました。彼はその後、イラクに行き、そこでも詩により彼の名声は高まり、最終的により安全かつ快適な生活のために、インドに渡りました。
ナジーリーはインド北部のアグラに行き、そこでムガル朝の総督をつとめていたアブドルラヒーム・ハーンの関心を得ました。アブドルラヒーム・ハーンはナジーリーを側近に迎え入れると勧誘し、ナジーリーはこれを承諾しました。アブドルラヒーム・ハーンの宮廷で、ナジーリーは莫大な富を手に入れ、これらすべてを、イラン人の移住者、特に芸術家や詩人のために使いました。ナジーリーは1612年、インド西部グジャラートで死去し、そこに埋葬されました。
ナジーリーの詩の特徴について、前回の番組でお話しましたが、ナジーリーは当時のサファヴィー朝時代の詩の長所を、ペルシャ語詩の伝統と融合させ、特別な形式を生み出しました。彼はペルシャ語詩の形式を創設した詩人で、ペルシャ語詩における預言者とされ、後の時代の詩人に大きな影響を与えました。文芸評論家によれば、ナジーリーの抒情詩のような傾向は、当時の詩人や、彼以後の詩人の作品に数多く見られるほど、ナジーリーの影響は大きかったのです。
当時の詩、あるいは彼の死後におけるナジーリーの地位は、17世紀のイランの高名な詩人、サーエブ・タブリーズィーが、ナジーリーは、自身よりも優れた詩人であり、サファヴィー朝時代では最も優れていたとするほど、高いものでした。
ナジーリーの詩を見ると、彼の詩には様々な特徴が伺えますが、彼がほかの詩人より優れていた点は、特定の詩のスタイルに通じていたことにあります。ナジーリーの最も重要な特徴は、言葉の健全さにあります。多くの文芸評論家によれば、ハーフェズ以後、ペルシャ語文学のテーマはいったん終わり、15世紀の詩人バーバー・ファガーニーがそれを復活させましたが、そのとき言葉の健全さは失われ、しばらく後まで、奇抜な詩を「ファガーニー的」と呼ばれていました。サファヴィー朝時代の一部の詩人は、古い時代の形式で詩を作っていました。これは、15世紀以降のペルシャ語詩における健全な言葉が消えてしまい、そういった言葉は古い時代のものと考えられていたためです。最終的に、詩を古いものと感じさせることなく、健全な言葉を詩の中で使ったのはナジーリーでした。つまり、ナジーリーの詩は、詩の決まりごとすべてを考慮し、詩の伝統を守りつつ、新たな表現などを混ぜ合わせたものでした。
ナジーリーの詩のそのほかの特徴には、生きた話し言葉による、健全な傾向があります。サファヴィー朝時代、話し言葉によるアプローチが一般的でしたが、この中で、それが極端になり、言葉の健全性はすっかり失われました。しかし、ナジーリーの傾向とは、話し言葉によりながらも、健全さを失うことはありませんでした。この健全なアプローチにより、彼の詩には、柔軟さや親しみやすさが存在します。このため、一部の文芸評論家は、ナジーリーほどの柔軟さや親しみやすさは、13世紀の巨匠サアディーの叙情詩においても伺えないとしています。
イランの名声、世界的な栄誉は、IRIB国際放送ラジオ日本語からお送りしています。今夜の番組では、16世紀から17世紀にかけての詩人、ナジーリー・ネイシャーブーリーについてお話しています。
インドの19世紀の学者、シェブリー・ノーマーニーは、サアディー、アミール・ホスロー、ナジーリーなどの優れた詩人の優れた点は、対話的であることにあるとしています。詩の言葉が親しみやすさや柔軟さ、流動性を持ったのは、口語や会話文を利用することによるものであり、ノーマーニーは、これらの詩人の詩における親しみやすさは、その内容が、対話的であることだとしています。
13世紀のインドのペルシャ語詩人、アミール・ホスローの詩では、アミール・ホスローがインド人であることから、一般的なペルシャ語ではなく、ヒンディ語表現を持つペルシャ語の文章による対話的なものとなっています。しかし、サアディーやナジーリーは、イランの人々が日常的に使っていたペルシャ語の単語を含んだ詩であり、このため、これらの詩人の多くの句が、様々な人々の間に広まっていきました。
ノーマーニーは、「話し言葉との結びつき」という言葉を使っています。ノーマーニーの分析によれば、我々が一部の詩を読むと、この詩が頭の中に再現されたと感じます。例えば、ハーフェズの詩は、ほかの詩人の詩よりもこういった作用を持ちます。このような詩が読まれたときにも、頭の中では完全に理解し、心も動かされます。これは、モウラヴィーのシャムス・タブリーズ詩集やサアディーの叙情詩を読んだときに感じるものです。ナジーリーの詩も、対話的であることから、彼の詩、特に叙情詩を口ずさんだとき、感情の高まりを感じることができます。
前回お話した、簡素なスタイルの詩人は、一般的に、真実の、個人的な、親しみある言葉を選んでいました。しかし、たいてい、ぎこちない形になり、心を動かされることはありませんでした。また、しばしば、健全な言葉に欠けていました。
サファヴィー朝後期のインド様式の詩においては、詩の内容は観念的になりました。基本的に話し言葉と結びついた詩は見られなくなり、もし見られたとしても、その原則は異なっています。こうした中で、ナジーリーのみが、柔軟な表現と話し言葉との結びつきにより、情感を完全な形で表現していました。
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