1月 20, 2020 14:47 Asia/Tokyo
  • タギーオッディーン・オウハディー・バルヤーニーの作品
    タギーオッディーン・オウハディー・バルヤーニーの作品

今回は新たなイランの栄誉となった人物を紹介しましょう。今回お話しするのは、16世紀のイランの詩人で著述家、辞書の編纂者であるタギーオッディーン・オウハディー・バルヤーニーです。

タギーオッディーン・オウハディー・バルヤーニーは、モイーノッディーン・ムハンマド・バルヤーニーの息子として生まれました。バルヤーニーの一族は当時の神秘主義の名家で、一族は皆、神秘主義的に高い地位と名声を得ていました。13世紀、偉大なペルシャ語詩人サアディーと同時代にシーラーズで生涯を送っていたシェイフ・アブドッラー・バルヤーニーは、シーラーズの著名な神秘主義者とされており、後の時代の神秘主義詩人ジャーミーも、彼とサアディーの関係について語っています。

オウハディーの祖先は、10世紀から11世紀の神秘主義思想の偉人、アブーアリー・ダッカーク・ネイシャーブーリーにさかのぼります。この一族の故地はイラン南部・ファールス州のバルヤーンで、一族はそこから別の街や国に移住したり、渡ったりしていました。父のモイーノッディーンは、聖職者で、ファールス州から中部のイスファハーンに移住し、そこで結婚しました。タギーオッディーンは1565年8月10日、イスファハーンで生まれました。

オウハディーは、大変幼い頃に父を失いました。彼は幼少期にイスファハーンで初等教育を受け、9歳から詩を詠み始めました。このとき、サファヴィー朝の王タフマーセブは、名家の孤児に教育を与える機関を設立しました。オウハディーも一時期、その機関で当時の学問の巨匠に師事しました。

オウハディー自身も認めるように、この時期、彼は学問を学ぶのに多くの時間を費やしました。彼はアラビア語の文法や論理学、数学、コーランを12歳まで学び、その後は哲学、倫理学を学びました。彼は詩作を子供時代から始めていましたが、母親の反対にあったことから、これをやめ、母が生きている間は詩を詠みませんでした。しかし、まもなく母親を失うことになります。

オウハディーは、母の死後、ヤズドに行き、1年間、この町の親族の下に身を寄せていました。このころ、タフマーセブ王がなくなり、イランは数年間にわたり混乱に見舞われました。オウハディーはこの時期イスファハーンに戻り、16歳までイスファハーンに滞在し、学問を修めました。

オウハディーはその後シーラーズに行き、4年間そこで過ごし、親戚であるモウラーナー・ミールガーリー・ギーラーニーの元で、学問を学びました。ミールガーリー・ギーラーニーは息子がいなかったので、オウハディーがその義理の息子となり、娘を娶らせました。この時期、オウハディーは神秘主義思想を学んでいました。

若い頃のオウハディーは、当時の一般的な学問を究めるために、旅に出ました。彼がイスファハーンに戻ったのは20歳のころで、かれはサファヴィー朝の王、ムハンマド・ホダーバンデのイスファハーンの宿営地に滞在しました。そのしばらく後、アッバース1世が王に即位すると、イラン北東部のホラーサーンからガズヴィーンに向かい、オウハディーはイラン中部のカーシャーンやゴムの神秘主義者の一団を伴って、アッバース1世と合流しました。

オウハディーは1年間、宮廷詩人としてアッバース1世の宮廷に仕えました。その後、シーラーズに戻り、5年間そこで過ごし、シーラーズの詩人の集会に参加しました。彼はほかの参加者より若かった中で、詩を作り、参加者を驚かせました。

この詩人のグループは、彼らがオウハディーと親戚関係にあり、オウハディーが若かったため、疑いを抱いており、このため、オウハディーは常に試されていました。

イランの名声、世界的な栄誉は、IRIB国際放送ラジオ日本語よりお届けしております。今夜は16世紀の文学者、オウハディー・バルヤーニーについてお話しています。

オウハディーは1592年ごろ、アッバース1世がウズベク族との戦争に勝利し、ホラーサーンからイスファハーンに戻るとともに、彼もイスファハーンに戻り、戦勝の祝祭に参加しました。オウハディーはこの会で、即興で四行詩を詠み、アッバース1世の大きな注目を受けました。オウハディーはその少し後、王の一団と共にガズヴィーンに赴き、その後しばらくしてイスファハーンに戻りました。このとき、数度にわたり、アッバース1世の関心を引き、アッバース1世の側近から、「王に気に入られたもの」と呼ばれました。

オウハディーはこの時期、様々な町を旅しました。1596年ごろにはシーア派の巡礼地を訪れるためにイラクに行き、4年間、現在のイラクにあるカルバラやナジャフ、カーゼマイン、バグダッドで過ごしました。彼はバグダッドで一部のペルシャ語詩人とともに生活していました。オウハディーは著書の中で、イラクに住んでいたイラン人の詩人について触れています。

イラクの旅から戻った後、オウハディーは1606年までイスファハーンに滞在し、執筆活動を行ったり、歌を作ったりしていました。その後は友人と共にインドに渡りました。彼はその旅で、ペルシャ語詩人らの一団と共に、シーラーズから現在のアフガニスタンにあるカンダハール、パキスタンにあるラホールに行きました。彼は1年半をラホールで過ごし、その後インド北部のアグラに行き、ムガル朝の4代目皇帝ジャハーンギールの宮廷に出仕するようになりました。そこからインド西部のグジャラートに渡り、数年間、そこの詩人や学者と交流しながら過ごしました。

オウハディーは1612年ごろ、メッカ巡礼に出ようとしましたが、成功せず、道半ばにしてアグラに戻りました。この町で数年過ごした後、その2年後、この町で貴重な著作の執筆を始め、その2年後に完成させました。オウハディーは様々なイランの町をめぐり、インドにおいても、広い範囲を旅しました。そしてそれぞれの町で詩人や要人などと交流しました。オウハディーはこの本の中で、インド西部のグジャラートで先週までお話してきたナジーリー・ネイシャーブーリーや、アジメールで著述家であるターレブ・アーモリーと会ったとしています。

オウハディーがインドに滞在していた時期は、彼にとって平穏な時期であり、様々な著作や詩集を執筆しました。そのいずれも、注目や研究に値するものです。

彼が亡くなった都市と場所については、よく分かっていません。1630年に作った詩が存在することから、このころまでは存命だったのは確かです。ある伝承によると、1641年ごろに亡くなったということです。

 

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