イランの名声、世界的な栄誉
モウラーナー・ホセイン・ヴァーエズ・カーシェフィー(2)
今回も15世紀の文学者で数学者、コーラン解釈者のモウラーナー・ホセイン・ヴァーエズ・カーシェフィーについてお話しすることにしましょう。カーシェフィーはさまざまな分野で貴重な貢献を行い、後世に残る作品を記しました。
ヴァーエズ・カーシェフィーことキャマーロッディーン・サブゼヴァーリーは、初等教育をサブゼヴァールで修め、その後、マシュハド、ヘラートに赴き、長年にわたり、説教や宣教活動に従事しました。ホセイン・バイカラがティムール朝の王に即位し、アリーシール・ナヴァーイーが芸術や文学を支援するようになると、カーシェフィーの名声と地位はこれまでなかったほど高くなりました。当時、伝承学やイスラム法学の大家の象徴だったヘラートの説教師の地位は、カーシェフィーに与えられました。
カーシェフィーは当時の神秘主義の大家であるジャーミーを通じて、ナクシュバンディー教団を知りました。一部の歴史家は、カーシェフィーを神秘主義教団のナクシュバンディー教団のスーフィーの一人だとしていますが、彼の作品を見ると、彼のナクシュバンディー教団への傾倒は、単に、神秘主義的な意味を持っていたことがわかります。彼は当時の教団の指導者の弟子でも、ジャーミーの弟子でもありませんでした。一部の作品の中で現れている、彼の神秘主義的な傾向は、彼の学術的な才能の影響を受けたもので、その学術的な才能はほかの側面よりも色濃いものでした。
大変多くの著作がカーシェフィーの作品として、今に残っており、さまざまな資料では彼について指摘がされていますが、彼の宗教や信条に関しては、多くのあいまいな点が存在します。一部は彼をスンニ派としており、一部ではシーア派としています。また、一部の研究者は、このような矛盾した情報の理由を彼が生まれた場所と住んでいた場所、つまりサブゼヴァールとヘラートにあるとしています。
カーシェフィーが生まれ、度だったサブゼヴァールは、シーア派の人々が住む町でした。一方、カーシェフィーが50年以上も生涯をすごしたヘラートの住民の多くは、スンニ派でした。疑いようがないことは、カーシェフィーが預言者の一族とイマームたちを愛していたことであり、彼はこの愛を固く持ち続け、あらゆるときに、あらゆる場所でそれについて語っていました。
サブゼヴァールのカーシェフィーのモニュメント
イランの現代の歴史家、ラスール・ジャアファリヤーン氏は、カーシェフィーの宗教について研究し、重要な結論に至りました。彼はこの研究の中で、預言者の一族への傾向から、イラン東部に住む、スンニ派の人々の間での預言者一門への傾倒を指摘しています。ジャアファリヤーン氏によれば、13世紀から14世紀以降、普通に、スンニ派の中でシーア派の慣習が行われていたということです。これは祈祷を行う際に、預言者の一門である12人のイマームの名前を挙げます。カーシェフィーは著作の中でこの慣習に従っています。
ヴァーエズ・カーシェフィーの『王の任侠の書』は、任侠に関する個人的な慣習や状況について物語っており、12人のイマームたちの名を唱えることが必要だとしています。3人のカリフの名は序文だけに出てきますが、一方で12人のイマームの名前は繰り返し出てきます。現代の研究者ラスール・ジャアファリヤーン氏は、次のように語っています。
「この本の第9章では、任侠の徒の特別な慣習について語られているが、カーシェフィーの宗教を知るのにも適している。彼はこの部分で、任侠の徒の帯の締め方を繰り返し語っており、この儀式の中で、任侠の長によって語られる2つの説教について触れている。この2つの説教はカーシェフィーがイマーム主義のシーア派であることを示している」
カーシェフィーの著作の中で、『殉教者の挽歌』はどの作品よりもシーア派色が強い作品です。この作品は預言者たちの歴史が序の部分で語られ、その後、イスラムの預言者ムハンマドの生涯の説明、そしてそのほかのイマームの生涯について語られます。この本の主目的である、カルバラに関する部分では、どの部分よりも詳細に記されています。
カーシェフィーは多くの仕事をこなす人物で、ペルシャ語・アラビア語の韻文と散文による多くの作品を記しました。彼の著作は多岐にわたり、読み手にとっては大変魅力的でした。当時、カーシェフィーの作品が人々の間で広まっていたことを示すしるしが、数多く存在します。彼の作品の多くはオスマン朝時代、トルコ語にも翻訳され、広まっていました。これに加えて、カーシェフィーの作品における、イマームや預言者たちに関する宗教的な側面を理由として、彼の作品はペルシャ語圏に広まっていました。歴史家のハンダミールはカーシェフィーに関する説明を彼の死から19年後にしるし、一部の作品が人々の間で名声を博していたことに触れました。
カーシェフィーのほとんどの作品の特徴は、彼の流暢で巧みな言葉です。【省略&次パラ接続】宗教、神秘主義、天文学、歴史、解釈や道徳などの作品だけでなく、彼の文学書も存在します。これは彼が韻文、散文において精通していたことを示しています。彼はペルシャ語の散文をよく知っており、修辞学にも独自の見解を有していました。彼の作品には、文書作成の技術に関する本もあります。この本では、さまざまな文書作成のケースの例文が、さまざまな社会階層のために記されています。
確かに、ジャーミーやナヴァーイーなどの当時の文学の大家とともに過ごしていたことは、カーシェフィーの文学的傾向に深い影響を与えました。彼の作品は、彼が文学に関して幅広く学んでいたということを示しています。カーシェフィーはまた、文学的な技術に関する本を記しました。彼はまた、モウラヴィーの『精神的マスナヴィー』に関する選集や解釈書などを記しています。
カーシェフィーは詩をよく知っていただけでなく、自身でも詩を詠んでいますが、批評家によれば、彼は当時において二流の詩人だったとされています。しかし、散文では、カーシェフィーは15世紀の後半において最も優れた散文作家だったとされています。彼の作品は、文章作成において、文学を学ぶ人々の手本とされただけでなく、教える人にとっての模範とされ、繰り返し模倣されました。
優れた現代イランの研究者、ザビーホッラーサファー博士は、カーシェフィーのスタイルについて、次のように記しています。
「カーシェフィーのスタイルは、ほかの文章やアラビア語の翻訳などに影響を受けていない場合、簡素かつ雄弁であり、当時の模範のひとつとなっている。彼の著作の多くは、説教のために常に勉強を必要としていた結果によるものだ」
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