1月 23, 2020 20:31 Asia/Tokyo
  • モウラーナー・ホセイン・ヴァーエズ・カーシェフィーの墓
    モウラーナー・ホセイン・ヴァーエズ・カーシェフィーの墓

今回は、前回の続きとして、15世紀のイランの優れた天文学者でコーラン解釈者、数学者のヴァーエズ・カーシェフィーについてお話しすることにしましょう。

カーシェフィーはさまざまな分野で価値ある貢献を果たし、後世に残る作品を残しました。今夜の番組では、カーシェフィーの著作を紹介し、検討することにいたしましょう。

キャマーロッディーン・サブゼヴァーリーことヴァーエズ・カーシェフィーは、大変精力的な著述家で、宗教学者、天文学者、コーラン解釈学者、数学者であり、また、ティムール朝期における、イランの優れた、影響力ある説教師でもありました。彼は初等教育を当時、学問の中心地だったイラン北東部のサブゼヴァールで受け、その後マシュハド、現在のアフガニスタンにあるヘラートに赴きます。

カーシェフィーは長年、説教を行い、宗教の知識や道徳を広めることに従事していました。ティムール朝の王、ホセイン・バイカラが即位し、アリーシール・ナヴァーイーが学識ある大臣として芸術や文学を支援すると、カーシェフィーの地位や名声はかつてないほどに高くなりました。カーシェフィーは神秘主義者のジャーミーにより、神秘主義のナクシュバンディー教団を知りました。また、カーシェフィーは多くの韻文作品、散文作品を残してきたともお話しました。現在イランは、イスラム暦の殉教月であるサファル月に入っているため、最も重要な彼の著作、『殉教者の哀歌』について検討することにしましょう。

サブゼヴァールのカーシェフィーのモニュメント

『殉教者の哀歌』は、数世紀にわたり、追悼集会、特にイスラム暦のモハッラム月において使われていた、最も重要な分権でした。この書は、この本を読んでいた人々により、人々の間で影響力を維持し、シーア派3代目イマーム・ホサインの物語の中で語りつがれ、著述家によって、いくつもの写本が記されてきました。

カーシェフィーはティムール朝時代の多くの歴史、宗教に関する著作をしたためてきました。しかし明らかに、最も重要なものはこの『殉教者の哀歌』でしょう。この作品は、イスラムの重要な歴史的事実であるカルバラの悲劇について記していることから、イランの歴史・文学において、大きな重要性を持っています。この著作は、一部の人々がこの作品からシーア派の追悼儀式が名づけられたと考えているほど、重要なのです。

『殉教者の哀歌』が記されたティムール朝末期の政治的、宗教的状況は、この作品に大きな影響を及ぼしています。ティムール朝が権力を掌握したことを少し考えれば、ティムール朝の始まりとともに、イランの都市における政治的、宗教的な状況は、シーア派にとってよい方向へと向かっており、ティムール朝の一族もこのことを知っていたことを理解できるでしょう。ティムールは自身の利益を考え、また、宗教的な対立を作り出さないよう、イランのシーア派の支持を得ようとしていたのです。

多くの歴史家や研究者によれば、ティムールがイランのシーア派の人々を気にかけていたことは、心からの信仰によるものではなかったということです。歴史家は、圧制者に対するシーア派の闘争精神が、この配慮に対する最も重要な理由だとしています。ティムール朝のイラン進出の当初から、イランのシーア派、とくにギーラーンやマーザーンダラーンの人々は、ティムール朝に反発していました。ティムール朝はシーア派の人々が日増しに強くなるのを知り、彼らの支持を得ようとしました。

ティムール朝時代、シーア派のセイエドと呼ばれる預言者の一族が政権によって優遇されただけでなく、シーア派の宗教的な大家も、自身の政治的、宗教的な地位などを守ろうとし、これによってティムール朝の人々に対する圧政を減らそうとしました。ティムール朝におけるシーア派の思想家の影響力は、イマームたちの名前を貨幣に刻み、シーア派の人々が宮廷に入り、大臣になるほどのものでした。

シーア派の人々は、ホセイン・バイカラの時代、つまりカーシェフィーが生きていた時代、ヘラートにおけるティムール朝の中央権力を味方につけ、重要かつ大きな影響力を持っていました。それは、歴史家によれば、ホセイン・バイカラがシーア派を公的な宗教にしようとするほどのものでした。しかし、多くの反対により、ホセイン・バイカラはこの決定を取り下げました。

総合的に、ティムール朝の末期は、政治面、宗教面で、ほかの宗教に対してシーア派が強力になり、影響力を持った時代でした。この時代、シーア派の宗教的な慣習が、文学、芸術、歴史などさまざまな分野であらわれ、この状況の影響を受けた、完全にシーア派色を持った作品が作り出されました。

ティムール朝の王、ホセイン・バイカラ

『殉教者の哀歌』はティムール朝の後、特にサファヴィー朝時代やガージャール朝時代に、イランの人々や著述家の間で多くの名声を博しました。この著作は、著者が認めるように年をとってから編集されたもので、10章に分けられています。この書ではまずはさまざまな預言者の歴史について大まかに述べたあと、イスラムの預言者ムハンマドの生涯を語り、それからシーア派のイマームの生涯について記しています。この書では、その主な目的であるカルバラの悲劇に関しては、何よりも詳しく書かれています。

カーシェフィーは優れた説教師として、大変多くの知識を持っていました。説教にもっとも必要な知識のひとつは、歴史的な知識、特に預言者やイマームや教友の歴史などを含む、宗教史の知識でした。カーシェフィーの著作は、彼がこれに関してよりよく知っており、当時利用されていた書物を繰り返し参照していたことが示されています。

カーシェフィーの時代、ヘラートやサブゼヴァールでは追悼集会が行われていました。歴史家によれば、この追悼集会は、基本的に哀歌を伴って行われ、確実にこれに関してあらかじめ用意された言葉がありました。カーシェフィーは『殉教者の哀歌』の中のモハッラム月の部分で、当時、この期間に際して引用されていた本について語り、これらはイマームたちの説明やアーシュラーの出来事を包括的に説明していないとしました。

イランで最も古い追悼儀式の画像

カーシェフィーは表向きには、あるヘラートのセイエドの要請により、こういった追悼儀式のための文章を用意することを決心していました。彼はイマーム・ホサインのために泣くことの重要性について説明したあと、「預言者の一族を愛するものは、毎年モハッラム月が到来した際、殉教者の受けた苦難を新たにし、預言者の一族の殉教劇を行うべきだ。これにより、人々の心は強い動揺を受け、涙を流すことになる」と述べています。

 

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