1月 25, 2020 13:54 Asia/Tokyo
  • モウラーナー・ホセイン・ヴァーエズ・カーシェフィーの墓
    モウラーナー・ホセイン・ヴァーエズ・カーシェフィーの墓

今回は前回の続きとして、多くの作品を記した作家で、15世紀の優れた天文学者、コーラン解釈者、数学者のヴァーエズ・カーシェフィーについてお話しすることにしましょう。

カーシェフィーはさまざまな分野で価値ある貢献を行い、後世に残る作品を記しました。今回は数回にわたり、カーシェフィーの作品についてみていくことにしましょう。

キャマーロッディーン・ホセイン・サブゼヴァーリーことヴァーエズ・カーシェフィーは、ティムール朝時代のイランの優れた学者でした。カーシェフィーは初等教育を当時学問の中心地とされていた現在のイラン北東部にあたるサブゼヴァールで学んだ後、イラン北東部の聖地マシュハド、そして現在はアフガニスタン西部にあたるヘラートに赴きました。

サブゼヴァールのカーシェフィーのモニュメント

彼は長年、説教師を行い、宗教的知識や道徳を広めることに従事し、ティムール朝の王、ホセイン・バイカラと、その学識ある大臣、アミール・アリーシール・ナヴァーイーの時代、当時イスラム法学やハディース学の大家が就いていたヘラートの説教師となりました。カーシェフィーは神秘主義者のジャーミーを通じてナクシュバンディー教団を知りました。また、カーシェフィーは多くの散文や韻文による作品を記し、その中で、『殉教者の哀歌』という作品は、彼の秀逸な作品のひとつであり、シーア派3代目イマーム・ホサインの追悼集会、特にシーア派の追悼期間であるモハッラム月において長年にわたり、使われていました。

この『殉教者の哀歌』は、ティムール朝末期における重要な文学書・歴史書で、その名声はサファヴィー朝、ガージャール朝の時代にも広まっていました。この本は預言者たちの歴史から始まり、預言者ムハンマドの生涯について語った後、そのほかのイマームたちについて記しています。この本では、その主目的であるカルバラの出来事については、ほかの何よりも詳しく記されています。

研究者はこの本がシーア派、あるいは預言者の一族を支持するスンニ派の間に幅広く浸透している理由は、その散文にあるとしており、この本のテーマの重要性は別として、その雄弁な散文は、この著作がシーア派の人々の間で永遠のものになったもっとも重要な要素だったと考えています。

カーシェフィーは当時におけるもっとも優れた散文作家でした。彼の著作『殉教者の哀歌』が最大の名声を得たのは、その美しい文体が理由です。この著作は、若い時代ではなく、老齢に達した頃で記されました。イランの研究者、ラスール・ジャアファリヤーン教授は次のように語っています。

「この本から美しい文を選りすぐり、抜粋するのは困難だ。なぜなら、どこを選んでも、より美しい場所が存在するように感じるからだ。あらゆる場合に、もっとも美しく、もっと心を刺すような詩を選ぶことで、この本はより心に響くものになる」

カーシェフィーはこの本では、何よりもサアディーの『バラ園』をイメージし、散文の韻を踏む上で、サアディーの形式に従っています。カーシェフィーの文体は、この作品に特別なリズムを与えています。このため、この『殉教者の哀歌』が受け入れられた理由は何よりも、詩のような文体と、熟練した物語の伝え方を伴った口調、物語的な要素の活用だとすることができます。このため、カーシェフィーは、歴史よりも、作品の文学的・芸術的な要素を大変考慮していたといえるでしょう。時には目的のために、フィクションを加えていました。

カーシェフィーがアーシュラーの出来事やそのほかの歴史的な出来事を語るために選んだ形式とは、歴史的で説話的な形式です。彼は確かに歴史を語ることを目的としていましたが、歴史的な語りにこだわらず、本のいたるところで、歴史的、学術的ではない話も語られています。このような形式は、一般の人々には大いに受け入れられるものでした。研究者や批評家によれば、このような記述は知性だけでなく、人々の心を動かし、多くの読者をひきつけるということです。たとえば、登場人物の姿や戦場の描写の多くに、こういうものが見られます。

カーシェフィーは『殉教者の哀歌』の中で、カルバラの出来事を描く中で、伝説的な内容を利用しています。殉教や殉教者について語る中で、この本では、当時のほかのペルシャ語の本ではほとんど見られないような内容をもカバーしています。おそらく、カーシェフィーは、カルバラの出来事について政治的でない捉え方をしていたものの、無意識に殉教についてのより包括的な内容を広めることにより、ペルシャ語をその中に多く盛り込んでいます。

『殉教者の哀歌』では、歴史的に根拠のない話も一部利用されていることから、学術的に信用ある文献として活用することはできません。たとえば、殉教者の一人はカルバラで殉教したとされていますが、これは歴史的な事実ではなく、この人物はそれ以前、シーア派初代イマーム・アリーとウマイヤ朝のムアーウィヤが戦ったサフェインの戦いで殉教しています。このようなことから、カーシェフィーが信用ある資料を活用しながら、不確かな資料も使っていたことが示されています。このため、研究者はこの著作を歴史的資料というより、文学や歴史小説として考えています。歴史小説としての特徴は、歴史的に正しい伝承と、自身で作り出したフィクションが混ぜられている、という点です。

研究者はカーシェフィーをアーシュラーの出来事を精神的な形で見るよう薦める奨励者だとしています。彼は神秘主義者であり、それには彼自身の世界やそこで起きることについての見解が影響を及ぼしています。彼が記す歴史は、神秘主義思想家が見た歴史であり、カーシェフィーは説教師であると同時に、神秘主義者であり、また預言者の一族を愛する物語作家で、詩人なのです。これらの要素はすべて、『殉教者の哀歌』がしるされたことに影響を及ぼしています。

カーシェフィーは『殉教者の哀歌』の序の部分で、自身の解釈の基盤を提示しています。神秘主義者は、崇高な精神性を獲得するため、この世を困難で厳しいものと捉えます。神も、預言者や宗教的な偉人により多くの困難な試練を与えていると考えています。

『殉教者の哀歌』は最後まで、カルバラの蜂起の本質、特にこの運動の政治的な目的については、まったく触れられていません。これは、単にカーシェフィーの神秘主義的な思想によるものです。カーシェフィーの見解では、カルバラの殉教者の地位は世界においてはよくなかったものの、現在ははよりよい地位に立っています。カーシェフィーによれば、預言者の一族、特にシーア派3代目ホサインを敬愛する人々に残される最後のものとは泣くことであり、それによって、彼らは最後の審判で救われるのです。

 

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