2月 23, 2020 16:13 Asia/Tokyo
  • アブーターレブ・キャリーム・カーシャーニー
    アブーターレブ・キャリーム・カーシャーニー

前回に引き続き、今週は16世紀から17世紀にかけてのペルシャ語詩人、アブーターレブ・キャリームについてお話しすることにしましょう。

インド・ムガル帝国の宮廷詩人としても活躍したキャリームは、ペルシャ語詩におけるインド様式の第一人者とされています。

アブーターレブ・キャリームはサファヴィー朝のアッバース1世の時代の詩人で、インド・ムガル帝国皇帝シャー・ジャハーンの宮廷に出仕し、「詩人の王」の地位を獲得した人物です。彼の人物史については、作品の中に埋もれてしまい、主要な部分が不明なままの状態です。

キャリームは若かりし頃、サファヴィー朝時代のほかの多くの詩人や文学者と同じように、インドに行きました。彼は1651年ごろ、インド北部のカシミール地方で死去しました。彼の墓はスリナガルにあります。またかれは1万5千の対句を含む未完の『王書』と、詩集を残しています。キャリームは様々な詩を実験的な形で詠んでいましたが、その名声と技術は、抒情詩の中に見られます。

芸術とは、社会の苦難や耐え難い事実を覆い隠し、間接的な形で事実を示しますが、歴史は直接的にそれを物語ります。また、【一部省略】国家的な芸術とは、人間の生活から得られたものを含んでいます。

偉大な芸術作品は、社会によって生み出されたもので、芸術家とは単にそれを飾る存在です。また、文学とは社会を映し出す鏡となることができる言葉上の芸術です。イラン近代の思想家で文学者のアーレアフマドは、「すべての国の歴史の最も基本的な資料とは、文学であり、それ以外は偽りである」と語っています。

すべての歴史における社会的な特性は、その時代の文学によって映し出されています。詩人や文学者は、その時代の雰囲気の影響を受けており、影響を受けるほど、それは文学作品に反映されています。過去に起きた多くの社会的、文化的な出来事や現象は、歴史や地理、経済、信仰や道徳、政治に関するペルシャ語文学の記述の中から発掘されているのです。

多くの研究者によりますと、文学作品とは、単なる空想上の遊びや興奮を呼ぶ脳からの抽出物にとどまりません。文学は時代の文化的な慣習を示すものであり、社会的な文化のエキスで、その時代の精神に関係があります。この時代とは、文学者が、文化的な教育や思想をはぐくんでいた時代です。実際、詩とは、社会の精神的文化を形にしたものだとみなされています。

サファヴィー朝は、多くの戦争を経て、1501年、イスマーイール1世がイラン北西部・タブリーズで即位したことにより創設されました。その後のサファヴィー朝の王は、およそ200年間にわたり8人の王が即位することで、イランを統治してきました。

この200年間、様々な好ましい結果、大変不都合な結果がともに存在しました。イランを政治的に統一し、強力な中央政権が築かれたのは、サファヴィー朝の統治によるよい結果といえるでしょう。同時に、悪い結果も生じており、そのひとつは、人々に苦しい生活を強いたことです。

キャリームが生きていた時代、6人の王がサファヴィー朝を支配しました。キャリームが若い頃はムハンマド・ホダーバンデの時代にあたり、その後アッバース大帝として知られるアッバース1世、サフィー1世が王となりました。子供時代にはタフマーセブ1世とイスマーイール1世が王でした。

歴史家は、ムハンマド・ホダーバンデの時代の11年間は、不安定な時代だったとしています。この時期、人々に対する圧制が横行していました。ムハンマド・ホダーバンデ自身は宗教に依拠したスローガンを唱えていましたが、人々は極限状態に置かれ、生活するのに必死だったのです。

そのほかの王も、宗教的なスローガンを唱えながら、酒を飲み、人々に圧制を加えていたのです。インド様式の詩人、フィールーズクーヒーは、次のように記しています。

「サファヴィー朝の一族は、表面的には宗教的、精神的で、宗教的な服装をしながら、人々に危害を加え、彼らの所有物を略奪していた。加えて、無知や貧困、格差が広がっていた」

モハンマド・ホダーバンデ時代の金貨

サファヴィー朝の時代は、ペルシャ語やペルシャ語文学が無視され、新たにアラビア語とアラビア語文学が、イランで盛んになった時代でした。シーア派が広まったことから、アラビア語による本が多く記され、アラビア語文学の活動が盛んになりました。サファヴィー朝の宗教政策により、この時代の詩においては、預言者をたたえる頌詩などが数多く作られました。

サファヴィー朝の王は、頌詩を作る詩人の価値を認めていなかったことから、イランの優れた詩人が、隣国に渡り、ムガル朝の宮廷に仕えました。サファヴィー朝の為政者の政策により、詩は社会階層の高いものたちによってのみ世に出され、一般の人々の間に広まりました。この時代、多くの職業詩人は、詩人としてあまりふさわしくない人物でした。こういった状況により、文学的な言葉は崩れ、単純な形で、そして内容も読者が理解できるような形で記されました。

サファヴィー朝時代の詩人は、過去とは異なる、彼ら自身の基準による新たなイメージや内容を用いていました。一部の研究者らは、ペルシャ語文学でインド様式が生まれた理由は、サファヴィー朝時代の社会経済的背景によるものであり、当時の読者の美的感覚のニーズに従ったことによるとしています。

インド様式が複雑になった要因のひとつは、単純で古典的なものからより複雑なものへと次第に移っていく芸術の自然な動きです。また、イラン人の詩人がインドの宮廷に出仕し、インドの文学に影響を受けたことも、要因とされています。

ペルシャ語の詩のスタイルの中で、インド様式は力強い文化的な支えがなく、その土地ならではの伝説的、歴史的、宗教信仰的な様相はその中にほとんど見られません。このため、インド様式の詩人はイランの文化的な伝統から乖離しています。この文化的な乖離の原因は、サファヴィー朝時代の政治的・社会的状況にあります。

 

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