4月 06, 2020 18:44 Asia/Tokyo

コーラン第32章サジダ章叩頭(こうとう) 第15節~第19節

                                                      慈悲深く、慈愛あまねき、アッラーの御名において

第15節

「我々の節に信仰を寄せるのは、いつでもこれらの節が読み上げられるたびにひれ伏し、賞賛と共に、神はあらゆる欠点や過ちを免れた存在だとし、高慢にならない人々である」(32:15)

(15)إِنَّمَا یُؤْمِنُ بِآیَاتِنَا الَّذِینَ إِذَا ذُکِّرُوا بِهَا خَرُّوا سُجَّدًا وَسَبَّحُوا بِحَمْدِ رَبِّهِمْ وَهُمْ لا یَسْتَکْبِرُونَ

 

口では信仰を主張しながら、その主張とは異なる行動を示す人がいます。彼らは、信仰を主張するものの、その行動はコーランに沿ったものではありません。信仰を主張しながら、神に対して頭を垂れることも、人々に対して謙虚になることもありません。それどころか、神の命に背き、人々に対しては高慢に振舞うのです。

 

この節は、「限定される」という意味をあらわすアラビア語の単語で始まっています。つまり、このような特徴を持つ、ごく限られた人々のみが真の敬虔な人間であり、他の人たちは信仰を偽って主張している、としています。

 

真の敬虔な人間の特徴のひとつは、コーランと神の言葉に服従することです。彼らはいつでもコーランの響きを耳にするたびに頭を垂れ、神への賞賛を始めます。あるいは、コーランの節に基づき、彼らに忠告が与えられるたびに、それを無条件に受け入れて従い、高慢になることはありません。彼らは神の恩恵に感謝すると共に、人生におけるさまざまな困難や災難を神のせいにしたりせず、神は創造世界の問題に関してあらゆる欠点や欠陥を免れた存在だと考えます。

 

第15節の教え

  • 神にひれ伏し、神を賞賛することは、真の敬虔な人間のしるしです。礼拝を行わないイスラム教徒は、実際、信仰の段階には達していません。
  • ひれ伏すことに価値が見出されるのは、それによって高慢さを捨て、謙虚になるときです。

 

第16節

「彼らは[夜中に]寝床を離れ、希望と恐れによって神に祈り、我々が日々の糧として与えたものの中から施しをする。」(32:16)

(15) تَتَجَافَى جُنُوبُهُمْ عَنِ الْمَضَاجِعِ یَدْعُونَ رَبَّهُمْ خَوْفًا وَطَمَعًا وَمِمَّا رَزَقْنَاهُمْ یُنْفِقُونَ 

 

第17節  

「そこで、喜びの源となるどのようなものが、彼らのために隠されているのかを誰も知らない。それは彼らが行っていたことの報奨である」(32:17)

(17)فَلا تَعْلَمُ نَفْسٌ مَا أُخْفِیَ لَهُمْ مِنْ قُرَّةِ أَعْیُنٍ جَزَاءً بِمَا کَانُوا یَعْمَلُونَ

 

神に対する謙虚さに関して述べた前の節に続き、この2つの節は、信仰を寄せた人々の別の特徴を挙げ、次のように語っています。「彼らは義務とされる礼拝を行うだけでなく、皆が休んでいる夜中に寝床を離れ、礼拝を行う。神と語りあうのに最も適した時間は夜中である。なぜならこの時間、人間は、考えや物事にわずらわされず、落ち着いた心で神に祈りを捧げることができるからだ。夜中は、人間が自らの過ちを謝罪し、神に赦しを求め、地獄に落ちることを恐れて涙を流し、神の慈悲や恩恵に希望を抱くのに適した機会である」

 

明らかに、このような神とのつながりにより、神の僕たちとの関係も促されることになります。そのような人は可能な限り、困っている人を助け、神から与えられたものの中から、神の僕たちに施します。

 

この節は続けて、そのような人々の報奨について次のように語っています。「自己顕示や策略から離れ、愛情をもって神を崇拝し、神の僕に配慮する人々には、誰にも想像できないような報奨がある。実際、彼らにどれほど重要な報奨が考慮されているのかは、神以外、誰も知らない」

 

第16節~17節の教え

  • 真の敬虔な人間とは、いつでも神の怒りを畏れると共に、神の慈悲への希望を失いません。その人は常に、希望と畏れの間で生活し、高慢になったり、希望を失ったりすることがありません。
  • コーランを朗誦するために夜中に起きて礼拝を行い、世界の神と語り合うことは、真の敬虔な人間のしるしです。
  • 神の無限の報奨を受け取るために、夜中の礼拝の苦しみに耐えましょう。

 

第18節

「敬虔な人間は、神の命に背く人と同じであろうか?[決して]同じではない。」(32:18)

(18)أَفَمَنْ کَانَ مُؤْمِنًا کَمَنْ کَانَ فَاسِقًا لا یَسْتَوُونَ 

 

第19節 

「信仰を寄せ、ふさわしい行いをした人々は、天国の庭園に彼らを受け入れるための場所が用意されている。それは彼らが行っていたことのためである」(32:19)

(19)أَمَّا الَّذِینَ آمَنُوا وَعَمِلُوا الصَّالِحَاتِ فَلَهُمْ جَنَّاتُ الْمَأْوَى نُزُلا بِمَا کَانُوا یَعْمَلُونَ

 

前の節に続き、この2つの節は、信仰の真の主張者と偽りの主張者を比較し、次のように語っています。「双方のグループの行いの結末を見るがよい。そうすれば、神の命に従う人々がどこに至るのか、また、信仰を主張しながら、行動では神の命に背く人たちの結末がどのようなものになるのかを知るであろう。この2つのグループは決して神にとって同じではない」

 

この節は続けて、天国とは、神が善良な僕たちを受け入れるために用意してくださった場所であり、誰でも、その人のよい行いに応じて、その場所を与えられることになります。

 

第18節~19節の教え

  • 人々に信仰を呼びかけるために、真の敬虔な人々の人生を、罪を犯した人や堕落した人のそれと比較しましょう。そうすれば、両方のグループのよい点と悪い点をはっきりと理解することができます。
  • 信仰と行動は切り離せません。天国は人間の行動に対する報奨であって、信仰を主張したことへの報奨ではありません。

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