11月 19, 2022 20:30 Asia/Tokyo
  • 光の彼方への旅立ち、ファーテル章 (12)

コーラン第35章ファーテル章創造者、第39節~第41節

慈悲深く、慈愛あまねき、アッラーの御名において

 

第39節

(39)هُوَ الَّذِي جَعَلَكُمْ خَلَائِفَ فِي الْأَرْضِ ۚ فَمَنْ كَفَرَ فَعَلَيْهِ كُفْرُهُ ۖ وَلَا يَزِيدُ الْكَافِرِينَ كُفْرُهُمْ عِنْدَ رَبِّهِمْ إِلَّا مَقْتًا ۖ وَلَا يَزِيدُ الْكَافِرِينَ كُفْرُهُمْ إِلَّا خَسَارًا

「彼こそは、あなた方を地上での後継者とした方である。そこで、誰でも不信心者になれば、その不信心の損失は自分自身に降りかかる。不信心者はそれによって、主からの怒りや敵意を増やすだけである。不信心者はそれによって、自分の損失を増やすだけである」

 

この節はまず、人間が地上での後継者であることを強調しています。コーラン解釈者の間では、これについて2通りの考え方があります。一つ目は、人間は地上における神の代理人である、と言う考え方です。そして二つ目は、それまでの民に続く新しい民の後継者だというものです。

 

いずれの場合にも、この節は、人間に自然のすべての恩恵を利用し、地球を支配することを許した、神の人間に対する恩恵を物語っています。理性によって、これらの恩恵の持ち主を知り、その持ち主に感謝しなければなりません。しかし残念ながら、多くの人間はその存在を知らず、その恩恵に感謝しません。そのような心は神を否定し、不信心に走ることにつながり、その損失は、神を信じないその人自身に返ります。なぜなら神は、人々の感謝を必要とはしていないからです。また、人間の存在を必要としているわけでもありません。人間がまだ存在していないときにも神は存在していました。また、人間が存在しなくても、神は存在します。そのため、人々が信仰を寄せるか、不信心に走るかが、世界の創造主である神に利益や損失を与えることはありません。それどころか、その利益や損失は、その人自身に返るだけなのです。

 

とはいえ、当然のことながら、敬虔で感謝する人間は、現世と来世で神の特別な慈悲と恩恵に授かります。また不信心に走った人間は、自分たちの醜い行いにより、神の怒りを買うことになります。

 

第39節の教え

  • 私たちが以前の民の後継者になったように、いつの日か、私たちもまた去ることになり、新しい民が私たちの後継者になります。そのため、自分たちの財産に高慢になり、不信心に走ることがないようにしましょう。
  • 不信心の危険な結果は限定的ではありません。それは常に広がり続けます。
  • 不信心は、多くの罪の下地となり、人間を消滅へと導きます。

   

第40節 

(40)قُلْ أَرَأَيْتُمْ شُرَكَاءَكُمُ الَّذِينَ تَدْعُونَ مِنْ دُونِ اللَّهِ أَرُونِي مَاذَا خَلَقُوا مِنَ الْأَرْضِ أَمْ لَهُمْ شِرْكٌ فِي السَّمَاوَاتِ أَمْ آتَيْنَاهُمْ كِتَابًا فَهُمْ عَلَىٰ بَيِّنَتٍ مِنْهُ ۚ بَلْ إِنْ يَعِدُ الظَّالِمُونَ بَعْضُهُمْ بَعْضًا إِلَّا غُرُورًا

 

「言え、『あなた方が神の代わりに祈っているものたちを見たことがあるのか?[それらについて考えたことがあるのだろうか?] それらが何を大地から創造したのか、私に示してほしい。それらには天に協力者がいるだろうか? また、我々は、多神教信仰の根拠となるような書物を彼らに与えただろうか? いや、圧制者たちは、その一部の人々が他の人々にする約束によって、互いを欺きあっている』」

 

この節は、いくつかの疑問を呈する形で、多神教信仰を否定し、預言者に対し、そのような人々に、論理や言葉の形で、自分たちの多神教信仰の根拠を提示させるよう求めています。彼らが、創造世界における神の協力者と見なすものたちは、これまで、大地や天において何かを創造したことがあるでしょうか?創造したことがないというのに、なぜ、それらを、世界のすべてを創造した神と同等のものと見なすことができるのでしょうか? 論理的にも、創造する力を持たないものに、崇拝の対象となる資格などあるのでしょうか?

 

論理的にも、多神教を信仰する根拠など存在しないことが明らかになった今、神が預言者に下した天啓の書の中に、このような中身のない対象を崇拝することは、指示されてもいなければ、許されてもいません。明らかに、論理的にも、言葉の上でも、そのようなことを行う理由はありません。一部の人々がこのような崇拝の対象の調停に希望を持ち、それらを崇拝する要因となっているのは、誤った思想や迷信です。そのような中身のない願望により、彼らは欺かれ、神の僕としての正しい道から遠ざかっているのです。

 

第40節の教え

  • 他人をイスラムへと導く方法のひとつは、疑問を呈することで、彼らの良心を呼び覚ますことです。
  • 不信心や多神教信仰は、いかなる論理的な根拠も持ちません。それらはただ、人間を欺く誤った考え方に基づいています。
  • 不信心や多神教信仰は、人間と人間性に対する圧制です。その影響は、その人自身に返ります。

   

 

第41節 

(41) إِنَّ اللَّهَ يُمْسِكُ السَّمَاوَاتِ وَالْأَرْضَ أَنْ تَزُولَا ۚ وَلَئِنْ زَالَتَا إِنْ أَمْسَكَهُمَا مِنْ أَحَدٍ مِنْ بَعْدِهِ ۚ إِنَّهُ كَانَ حَلِيمًا غَفُورًا

 

「まことに神は、天と地を軌道から外れないように支える。もし逸脱すれば、神以外の誰も、それらを支えることはできない。神は寛容で忍耐強い方である」

 

前の節は、天と地の創造、地上の生き物について語っていました。この節は、天と地の秩序の確立について語っています。それを行えるのは神のみであり、いかなる創造物も、それに関与することはありません。多神教徒は、神を創造主としては認めており、自分たちの崇拝の対象を、創造世界の管理や自分の生活において神と同等の協力者であると見なしていました。この節は次のように語っています。「創造において神と同等の協力者がいないのと同じように、創造世界の管理においても、神の協力者は存在しない。現在の秩序の維持と存続は、神のみの手の中にある」

 

第41節の教え

  • 天と地の状況、地球、太陽、星が決められた軌道や位置にあるのは皆、神の意志によるものです。神が、それらを常に維持しています。
  • 創造世界の秩序は、あらかじめ決められた計画や神の意志によって形作られたものであり、おのずと生まれたものではありません。
  • 神は創造主であり、管理者でもあります。さまざまな現象が生まれ、それが続いているのは神によるものであり、神が望まない限り、存在物が滅びることはありません。
  • 神の寛容さと忍耐強さがなかったら、創造世界は罪を犯す人や圧制者の上に崩れ落ちていたでしょう。神が圧制者に猶予を与えているのは、無力であるためでなく、神の忍耐強さからきています。