6月 07, 2022 18:58 Asia/Tokyo

コーラン第35章ファーテル章創造者、第45節

慈悲深く、慈愛あまねき、アッラーの御名において

第45節

(45)وَلَوْ يُؤَاخِذُ اللَّهُ النَّاسَ بِمَا كَسَبُوا مَا تَرَكَ عَلَىٰ ظَهْرِهَا مِنْ دَابَّةٍ وَلَٰكِنْ يُؤَخِّرُهُمْ إِلَىٰ أَجَلٍ مُسَمًّى ۖ فَإِذَا جَاءَ أَجَلُهُمْ فَإِنَّ اللَّهَ كَانَ بِعِبَادِهِ بَصِيرًا

「また、もし神が、人々をその行いに即して叱責すれば、地上にいかなる生き物も残っていなかっただろう。だが、人々は決められた期間の猶予を与えられる。そこで、その期限がやってきたとき、[彼らは罰を受ける]。まことに神は、僕たちの状態をよく見ておられる」

 

多神教徒たちの策略と、その悪い結果について述べた前の節を受け、この節は次のように語っています。「とはいえ神は非常に忍耐強い。誰でも違反をしたり、間違いを犯したりすれば、ただちに罰されるというわけではない。それどころか神は、すべての人間に機会を与え、現世にいる間に罪を悔い改め、罰から解放されるようにしている。しかし、死が訪れ、その痕跡を目にしたとき、もはや罪の悔悟が受け入れられることはない」

 

ファーテル章の最後の節となるこの節は、人間に対する神の恩恵について述べています。人間が罪を犯したとしても、神はただちに人間を罰するわけではありません。それらの過ちを償うための機会が与えられます。もしそうでなければ、実際、人間はさまざまな権限や自由な意志を奪われ、仕方なく強制的に罪を回避することになっていたでしょう。たとえば、嘘をつくことで口が利けなくなっていたら、仕方なく嘘をつくのをやめていたでしょう。

 

人間の行いの結果が報奨であるか懲罰であるかは、最後の審判まで先延ばしにされていますが、それによって善を行う人は、自分の意志によって善い行いをし、悪い行いをする人は自分の意志によって悪に走っています。そのいずれも、強制的であることを感じないようになっているのです。

 

第45節の教え

  • 人々への懲罰が現世から最後の審判に延期される理由の一つは、人類の種の存続にあります。もし人々が現世で叱責され、罰を受けていたら、地上の人類は滅亡していたでしょう。
  • 神は非常に忍耐強い方です。神は寛容で猶予を与えてくださいます。そのため、人間が罪を犯しても、ただちにその罰を与えることはありません。それどころか、その人に死が訪れるまで、自分を改め、誤った道を引き返せるように猶予を与えています。
  • 神から猶予が与えられるからといって、それは神が私たちの行いを知らないためと考えるべきではありません。神は私たちの行いのすべてを監視しています。