6月 02, 2020 13:31 Asia/Tokyo
  • アブーターレブ・キャリーム・カーシャーニー
    アブーターレブ・キャリーム・カーシャーニー

これまでの数回にわたり、サファヴィー朝時代のイランの詩人で、インドに渡り、インド様式の詩の第一人者となった、キャリーム・カーシャーニーについてお話してきました。 アナ2 今回は歴史の一時代においてインドに渡った人々が多かったことに注目しながらお話することにしましょう。

前回では、インドが移住者を受け入れていたことについて触れました。インドの政治体制は、1000年にわたり、移住という現象によって形成され、ほとんどの政権は、地元の人間でない移民によって運営されていました。

イランの人々は、インドとの歴史的、社会的、文化的にに深い結びつきにより、ほかの移民に比べて特別な成功を収めていました。はじめにゾロアスター教徒が、その後イスラム教徒が、数百年にわたってインドに移住し、多くの影響を与えました。

また、モンゴルのイラン侵攻に関係する移住者と、その後のサファヴィー朝時代の移民の数が多く、その中には、詩人や芸術家、医師、神秘主義者、イスラム法学者が多く含まれていたということについてもお話しました。イランの神秘主義者は、インドにイスラムとペルシャ語を普及する上でもっとも大きな役割を果たしました。

イランの文化と芸術は、イラン人の移民によってインドに就いた割り、インドの文化や芸術に多方面で影響を及ぼしました、文化的な影響についてはお話して来ましたが、芸術的な影響についても、注目に値するほどです。

インドにおけるイランの建築様式の影響もまた、顕著なものです。インド東部・パータリプトラのマウリヤ朝の宮殿など、インドの最も古い建造物の一部は、イランの建築技術の影響がたぶんに見られます。

アケメネス朝の崩壊後、イランの職人たちはマウリヤ朝に招かれて、パータリプトラに移住しました。そこでは、ペルセポリスの建築法にヒントを得た宮殿が作られました。インドにおけるイラン式建築の影響は、紀元前3世紀から始まり、その後、数世紀にわたって続きました。ある学者は、アショーカ王時代の柱頭は、アケメネス朝時代の建築様式の模倣だと考えています。

アショーカ王時代の柱頭

研究者のシャフリヤール・ナガヴィーは、次のように考えています。

「現在のパキスタンにあるムルタンやラホールでは、モスクや廟をサーサーン朝、あるいはセルジューク朝時代のモスクや墓の様式で建築した。また、デリー・スルタン朝の王たちは、クトゥブ・ミナールのような建造物を作った。王たちの政治体制がインド各地に拡大すると、多くの美しい建物が建てられ、それらはイランとインドの建築様式の混合が完全の極みに達した。タイル装飾の技術も、イランからインドに伝わり、インドの人々の注目を集めた」

現代に残る壁画も、インドにおいて長い歴史を有していることは明らかです。アジャンタの石窟など、インドの歴史的建造物の壁の多くには絵画における多くの魅力的な例が見られます。

一部の研究者は、インドでは、本に挿入されている細密画がイランで広まっていたような形でなじみがなく、13世紀の100年間ににイランからインドに渡ったとされています。例として、イランの任侠の徒に関する話「アミール・ハムゼ」がインドの王たちの大きな注目を受け、彼らの指示により細密画による挿絵が記されました。

アミール・ハムゼ

イランの絵画芸術の影響がインドでもっとも顕著だったのは、ティムール朝の時代の作品でした。サファヴィー朝時代のイランにおける壁画や細密画は、細密画の巨匠、ベフザードの弟子がインドに移住するほど繁栄を極めていました。

ムガル朝の2代目皇帝フマーユーンは、インドを失った後、サファヴィー朝のタフマーセブ1世の宮廷に客人として滞在していました。彼はイラン北西部タブリーズでミールセイエド・アリー・タブリーズィーとハージェ・アブドルサマド・シーラーズィーの当時有名だった2人の絵師に会い、イランの軍の支援によりインドを取り戻したあと、この2人の絵師をインドにつれて帰り、特別な形でもてなし、絵の仕事を与えました。

この2人の絵師はフマーユーンの命により、書籍『アミール・ハムゼ』の挿絵1400点を描きました。この本の挿絵の初めの部分はサファヴィー朝の様式が使用されていましたが、次第にその影響は薄れ、これらの絵師たちはインド様式の影響を受けるようになりました。シャフリヤール・ナガヴィーは次のように記しています。

「ムガル帝国の2代目と3代目の皇帝、つまりフマーユーンとアクバルの時代にインドに流入した絵画の技術は、インドに影響を与え、変化した。その結果、ムガル様式という新たな絵画の流派が出現し、インドに大きな影響を与え、後にインドの人々にラジャスタン様式と呼ばれた」

アミール・ハムゼの挿絵

イランの名声、世界的な栄誉はIRIBラジオ日本語よりお送りしています。

イラン人の移住者のインド音楽における影響も、考察に値するテーマです。音楽は以前から宗教的な側面を有しており、時代の中で次第に発展します。インドに移住したイラン人は楽器を持ち込んでおり、またインド人も昔からすばらしい音楽を有していました。歌い手が注目したのは、ガザル、つまり抒情詩でした。

歌い手たちはインドの宮廷でイラン式で抒情詩を読み、ロバーブと呼ばれる弦楽器を演奏していました。このように、イランの楽器や歌はインドの宮廷に入り、受け入れられ、次第に人々の注目を集めるようになりました。それは、インド音楽の巨匠たちもその影響を受けたほどでした。

インド音楽の基盤の変化と、イラン音楽の要素の流入は、主に13世紀の著名なペルシャ語詩人詩人アミール・ホスローによります。アミール・ホスローはインドとイランの楽器や歌に完全な形で精通しており、また2つの音楽を完全に熟知していました。その結果、2つの音楽は混ざりあい、新たな音楽が創造されました(適当)。

アミール・ホスロー

アミール・ホスローはタブラやシタールなどの楽器を作ったほか、神秘主義歌による説教、カッワーリーなどの一連の歌唱をインドに持ち込みました。研究者のアブドルハック博士は、神秘主義者の音楽に対する支持について、次のように記しています。

「多くの神秘主義者が音楽を崇拝しており、一部のものは完全に習熟していた。たとえば、12世紀から13世紀にかけての神秘主義者バハーオッディーン・ザカリヤー・ムルターニーは音楽の巨匠の一人ともみなされていた。また、アミール・ホスローの弟子、ハージェ・ネザーモッディーン・オウリヤーは、音楽的な技術を持っており、アミール・ホスローは彼の声を聞くと喜んでいた」

デリー・スルタン朝やムガル帝国の王たちは、イランの芸術や文化、特にイランの音楽の広がりに貢献し、彼らの宮廷はイラン音楽の演奏の中心地となりました。16世紀の年代記『アクバルの書』では、イラン人の音楽家40人が、宮廷音楽家となっていたとして、彼らについて紹介しています。インド人、イラン人の音楽家は皆、ペルシャ語が正式な言葉とされていたことから、宮廷ではペルシャ語の歌を歌っており、どこでもペルシャ語の歌が人々の人気を博しました。

 

ラジオ日本語のユーチューブなどのソーシャルメディアもご覧ください。

https://urmedium.com/c/japaneseradio

https://twitter.com/parstodayj

https://www.instagram.com/parstodayjapanese/

 https://soundcloud.com/user-614960283

タグ