オバマ大統領後のアメリカ
(last modified Thu, 19 Jan 2017 06:40:40 GMT )
1月 19, 2017 15:40 Asia/Tokyo
  • オバマ大統領後のアメリカ

1月19日、アメリカのオバマ大統領の8年間の任期が満了します。

1月20日、オバマ大統領は、ホワイトハウスの鍵をトランプ氏に引き継ぎます。これでアメリカの一つの時代が幕を閉じることになります。

この8年間、アメリカは多くの浮き沈みを経験しました。

民主党に属するオバマ大統領は共和党のブッシュ前大統領から権力を引き継ぎ、アメリカは1929年の大恐慌以来最悪の金融危機に入りました。

2007年の金融危機は、アメリカの低所得者層向け住宅ローン、いわゆるサブプライムローンに端を発し、多くの産業や金融機関が破綻しました。同時に数百万人のアメリカ人が職を失ったことを受け、その財産や貯蓄もほぼ消失しました。

巨額の資金を投じたアフガニスタンとイラクの戦争もまた、アメリカ人への経済的、社会的圧力を増しました。国際面では、アメリカ同時多発テロ後のブッシュ政権の一極主義により、世界の同盟国や国際世論のもとでのアメリカの評判はがた落ちしました。

こうした中、オバマ大統領はアメリカの人々の変化を求める気運に応え、大統領に就任しました。

ダメージを受けた経済を立て直すこと、新たな雇用の創出、安価な保険制度の確立、移民法の簡略化、無意味な戦争の終結、アメリカの人気の回復、これらが2007年の選挙戦でのオバマ大統領の基本公約でした。このため、オバマ大統領の8年間の任期の成功と失敗を評価するために、これらの公約の一つ一つを検討すべきでしょう。

アメリカの打撃を受けた経済を立て直すことについて、オバマ大統領はある程度まで、この危機を抑制することができたと言えるでしょう。オバマ政権は数千億ドルを市場に注入することで、破綻の継続を阻止し、新たな雇用の機会を生じさせることに成功しました。オバマ政権は、法案を可決して、ウォールストリートに秩序をもたらしました。

こうした中、2007年から2008年の金融危機を抑制するためのオバマ政権の計画は、好ましくない経済的な影響も伴いました。アメリカ政府の負債額は2倍になり、19兆ドルを超えました。予算調整における対立や莫大な負債額への対処は連邦政府の活動を、アメリカ史上二回目の停止に追い込みました。オバマ政権の経済計画から生じた問題や経済成長は、一般の期待に応えることはできませんでした。

オバマ政権の経済政策に対する強い不満を受け、同じ民主党の大統領候補、クリントン氏は2016年の大統領選挙で敗北を喫しました。

社会分野でもオバマ大統領は、選挙戦で数多くの公約を提示していました。

オバマ大統領が考えていた最も重要な計画は、医療保険制度改革・オバマケアです。これは、市民が安価な保険料で医療サービスを受けられるというものでした。

オバマケアはここ数十年でアメリカの最も重要な社会改革と呼ばれましたが、オバマ政権の前には強力な敵が立ちはだかりました。このグループはオバマ大統領を自由市場の原則に違反し、経済問題や市民生活に介入したとして非難しました。さらに実行の段階において、共和党管理下の議会を妨害したとして、オバマケアは多くの障害に直面し、人々の不満を増幅させました。

これに加えて、人種問題、暴力、同性婚など社会、文化問題もオバマ大統領の8年間に影を落とした問題です。オバマ大統領はアメリカ史上初の黒人大統領ですが、任期中に国内で、人種差別問題が再燃しました。

黒人の市民に対する警察の数々の暴力により、アメリカの各都市では激しい抗議が起こりました。移民法の改正に対する政府の遅延も、不満を拡大し、同性婚を支持する法の施行も、保守派を反対に立ち上がらせました。

オバマ大統領は2008年、民主党やリベラル派、有権者の幅広い支持を得て、大統領に選出されました。

黒人がアメリカでの昔からの差別の障壁を乗り越えて、大統領に就任したことは、アメリカ市民を興奮させるものでした。

オバマ大統領の勝利と時を同じくして、アメリカ議会の議席は、多数の知事の席と共に民主党が占めました。しかしながら、この興奮は長くは続きませんでした。

オバマ大統領がチェンジというスローガンを実行できなかったことは、アメリカの人々の彼への見方を変えました。オバマ政権時代の2010年に行われた最初の選挙で、民主党は議会の過半数の議席を失いました。議会の共和党支配は6年後まで続きました。

オバマ大統領が率いる民主党は、2012年、14年、16年のどの選挙でも議会の過半数を占めることができませんでした。オバマ大統領は2012年の選挙で再選されましたが、議会の共和党の反対により、一部の計画を推進できなかったことは、2016年の大統領選挙での民主党候補の勝利の道をさらに困難にしました。

この6年、共和党はホワイトハウスの前に強固な堤防を築きました。例を挙げると、共和党はグアンタナモ刑務所の閉鎖に関するオバマ大統領の公約を実現させませんでした。さらに銃規正法は議会で共和党の反対に直面し、予算案は一時的な形で可決されました。こうした流れは、2016年11月に民主党が政府と議会での権力を手放すときまで続きました。

オバマ大統領は、人々が巨額の費用と被害をこうむり、長期化するイラクやアフガニスタンでの戦争に強く怒っていた時代に、大統領に選出されました。

共和党のブッシュ政権は、同時多発テロを口実にアフガニスタンに侵攻しました。その後、大量破壊兵器の存在を理由に、イラクを攻撃しました。この二つの戦争は2008年末までに、およそ1兆ドルの直接的な費用とおよそ4兆ドルの間接的な費用をアメリカの納税者に負担させました。さらにイラク戦争は1960,70年代のベトナム戦争後、最も多くの犠牲者を出した戦争とされています。

イラクで大量破壊兵器が見つからず、さらにはアメリカ軍がアフガニスタンでアルカイダやタリバンを消滅させることができなかったことで、ブッシュ政権とその対テロ政策への抗議が高まりました。

こうした中、オバマ大統領は、戦争を終わらせるなど、「チェンジ」というスローガンを掲げて、大統領選挙で勝利しました。

アメリカの新大統領が好戦的な政策を停止するのではという期待をかけて、前例のない措置として、オバマ大統領にノーベル平和賞が授与されました。そのとき、オバマ大統領は世界での戦争終結に向けて注目に値する措置を講じておらず、またその後もこうした措置をとることはありませんでした。

とはいえ、オバマ大統領の時代には、イラクからのアメリカ軍の撤退が実行されましたが、撤退の決定は、ブッシュ前大統領とイラクの当時の政府関係者の間で締結された合意の中でとられたものでした。さらに、オバマ大統領は選挙公約に反して、アメリカ軍をアフガニスタンから撤退させませんでした。

こうした中、リビアでの戦争がオバマ政権が主導して開始され、アメリカの大統領は何度となく、国境を越えた標的への無人機による攻撃を命じました。オバマ大統領は、ブッシュ前大統領以上に、無人機による攻撃での民間人の死の責任を負っています。イラクやシリアでのテロ組織ISISの出現、このグループによる恐ろしい犯罪の責任もまた、明らかにオバマ大統領にあるのです。

オバマ大統領は外交分野でも、成功と失敗の両方の遺産を残しました。

オバマ政権は、長年のキューバとの敵対関係を改善し、半世紀ぶりに国交を回復しました。

アメリカのミャンマーの関係も、回復しました。さらにアメリカはイランの平和的核計画に対して妥協姿勢を見せ、イランと6カ国の間で核合意を成立させました。

オバマ大統領は、この三つの成功、つまりキューバ・ミャンマーとの和解、そしてイランとの核合意を、外交政策における政府の業績として提示しようとしました。一方で、国際情勢におけるオバマ大統領の失敗も長いリストがあります。

オバマ大統領の8年間の任期で、ロシアとアメリカの関係は大きな緊張を見せ、アメリカが、ウクライナ問題に干渉し、クリミアを併合したとして、ロシアに制裁を科すところまで進行しました。こうした中、アメリカの政策は、ロシアの東欧や西アジアなどの地域政策を大きく変えることはできませんでした。

アラブ世界で人々の抗議が続く中、アメリカは西アジアや北アフリカで自らの目的を推し進めることはできませんでした。こうした失敗は、何よりもシリアで明らかになりました。シリアの政府と国民が、アメリカが主導する西側とアラブの連合の努力にもかかわらず、この連合が支持するテロリストに対して抵抗したからです。

オバマ大統領は、任期の5年間を、シリアのアサド大統領の転覆に費やしました。こうした中、オバマ大統領の任期最後の日まで、シリア大統領は人々や軍の支持を受けて今も権力の座についています。シリア・アレッポの解放とシリア全土の停戦確立の流れからアメリカが外れたことは、アメリカ政府の力が及ばなかったことを示しました。

東アジア情勢に関しても、オバマ大統領は、広島を訪れた初めてのアメリカ大統領となりました。

オバマ政権は、貿易問題や南シナ海での権力誇示など、中国の行動を改めさせることもできませんでした。ヨーロッパ、アジア、アフリカでのこうした一連の情勢により、オバマ大統領は国際体制におけるアメリカの優位を維持することができなかったとして非難されることになりました。

そしてトランプ氏が、2016年の大統領選挙で、「アメリカを再び偉大にしよう」というスローガンを掲げて勝利しました。

 

タグ