• モハンマド・ビン・ダギーギー

    モハンマド・ビン・ダギーギー

    10月 01, 2019 13:43

    西暦の10世紀にあたるイスラム暦4世紀は、イランの文学が最高の繁栄を見せた時代とされています。多くの研究者や思想家は、これほど多くの偉大な詩人が存在していた時代は他にほとんどないと考えています。ほとんどの詩人や多くの作品は、10世紀に属しています。その中で最も優れた人物に、ダギーギー・トゥースィーがいます。

  • ルーダキー(2)

    ルーダキー(2)

    9月 30, 2019 14:52

    ルーダキーは西暦の9世紀半ばごろ、現在のウズベキスタンにあたり、当時はイランの広大な領土の一部だった、サマルカンド近郊の山すそのルーダク村に出生しました。彼の生涯や学歴に関しては、それほど資料が存在しません。彼はまた莫大な行数の詩を詠みましたが、現存するのはわずか960の対句のみです。そのうちの115は、寓話詩『ケリーレとディムネ』の韻文で、彼はサーマーン朝の君主、アブーナスル・サーマーニーの命によりこの寓話を韻文化しました。

  • ルーダキー(1)

    ルーダキー(1)

    9月 29, 2019 15:02

    イランにおける詩は歴史の中で、人々の心の中に浸透し、統治体制の中で常に特別な地位を与えられてきました。詩はイランの人々の生活の中に入り込んでおり、このため常に評論家によって研究されてきたのです。イランにおける文学と学問の歴史は、紀元前331年、即ちアケメネス朝の滅亡にまでさかのぼります。

  • ギヤーソッディーン・ジャムシード・カーシャーニー(3)

    ギヤーソッディーン・ジャムシード・カーシャーニー(3)

    9月 28, 2019 13:48

    ジャムシード・カーシャーニーがイランの高名な天文学者、数学者で、西暦1388 年ごろに当たるイスラム暦790年にイラン中部カーシャーンで出生したことについてはお話しました。彼は『ハーガーニー天文表』という天文学における貴重な著作を記し、それをティムール朝のウルグ・ベクに贈呈した後、現在のウズベキスタンにあるサマルカンドに招かれました。サマルカンドは当時、学問、思想における重要な中心地でした。カーシャーニーはサマルカンドに滞在していた時期、自分の命をささげた、この町の天文台を建設しただけでなく、貴重な著作を執筆しました。

  • ギヤーソッディーン・ジャムシード・カーシャーニー(2)

    ギヤーソッディーン・ジャムシード・カーシャーニー(2)

    9月 26, 2019 16:34

    ギヤーソッディーン・ジャムシード・カーシャーニーは、イスラム暦790年に当たる西暦1388年ごろに、イラン中部・カーシャーンで、優れた医師の息子として出生しました。当時は、ティムール朝がイランを支配していました。カーシャーニーは『ハーガーニー天文図』という貴重な書籍を記した後、それをティムールの孫でティムール朝の君主、ウルグ・ベクに贈呈し、ティムール朝の本拠地だったサマルカンドに呼び寄せられました。

  • ギヤーソッディーン・ジャムシード・カーシャーニー(1)

    ギヤーソッディーン・ジャムシード・カーシャーニー(1)

    9月 25, 2019 20:02

    今回は、イスラム時代のイランの傑出した天文学者で、数学者でもあるギヤーソッディン・ジャムシード・カーシャーニーをご紹介することにいたしましょう。彼は、旧式の基本的な四則計算を修正して完成させ、これらを刷新してより簡便な方法を編み出した人物です。

  • ナスィーロッディーン・トゥースィー(4)

    ナスィーロッディーン・トゥースィー(4)

    9月 24, 2019 13:36

    ハージェ・ナスィーロッディーン・トゥースィーは西暦1201年にあたるイスラム暦597年、イラン北東部のトゥースに生まれ、コーランやイスラム法学や原理を父の下で、その後おじのヌーロッディーン・ムハンマドの下でイスラムの伝承・ハディースや論理学や哲学を学びました。その後彼は、学問を修めるために、当時イスラム世界の学問の中心の1つとみなされていたイラン北東部のネイシャーブールに赴き、当時の一般的な学問のすべてにおいて頭角を現しました。

  • ナスィーロッディーン・トゥースィー(3)

    ナスィーロッディーン・トゥースィー(3)

    9月 23, 2019 13:59

    トゥースィーが、イスラム暦の597年に当たる西暦1201年にイラン北東部の町トゥースで生まれたことについては、前回もお話ししました。彼は、コーランやイスラム法学や原理を父の下で、その後おじのヌーロッディーン・ムハンマドの下でイスラムの伝承・ハディースや論理学や哲学を学びました。その後彼は、学問を修めるために、当時イスラム世界の学問の中心の1つとみなされていたイラン北東部のネイシャーブールに赴き、当時の一般的な学問のすべてにおいて頭角を現しました。

  • ナスィーロッディーン・トゥースィー(2)

    ナスィーロッディーン・トゥースィー(2)

    9月 22, 2019 16:44

    ナスィーロッディーン・トゥースィーは1201年、イラン北東部の町トゥースに生まれました。彼は、コーランや学問の基礎、イスラム法学や原理を父の下で、その後おじのヌーロッディーン・ムハンマドの下で、イスラムの伝承・ハディースや論理学や哲学を学びました。 また少年期に、学問を修めるために、当時イスラム世界の学問の中心とみなされていたイラン北東部のネイシャーブールに赴き、当時の一般的な学問の全てにおいて傑出した存在となりました。モンゴルがホラーサーン地方に侵攻していた時期、トゥースィーはイスマーイール派の拠点に行き、多くの著作を記しました。モンゴルのフラグ・ハンはイランを攻撃し、イスマーイール派の統治を終わらせると、トゥースィーを召抱え、彼を事実上の宰相に選びました。

  • ナスィーロッディーン・トゥースィー(1)

    ナスィーロッディーン・トゥースィー(1)

    9月 21, 2019 15:44

    13世紀のイランの偉大な学者、ナスィーロッディーン・トゥースィーは西暦1201年(イスラム暦597年)に、イラン北東部の町トゥースで生まれました。彼の名前や称号、出生年月日、出生地、父親の名前などで、見解の対立は存在せず、彼自身も自分の出生地をトゥースとしています。これについて、ハムドッラー・モストウフィーなどの一部の歴史家は、次のように記しています。「彼の出自はテヘラン南方の聖地ゴム近郊のヴァルシャーという村で、当時はテヘラン南方のサーヴェの一部だった。しかし、彼の先祖がトゥースに赴き、彼自身もそこで出生したことから、トゥース出身として有名である」。