9月 29, 2019 15:02 Asia/Tokyo
  • ルーダキー
    ルーダキー

イランにおける詩は歴史の中で、人々の心の中に浸透し、統治体制の中で常に特別な地位を与えられてきました。詩はイランの人々の生活の中に入り込んでおり、このため常に評論家によって研究されてきたのです。イランにおける文学と学問の歴史は、紀元前331年、即ちアケメネス朝の滅亡にまでさかのぼります。

マケドニアのアレクサンダー大王がイランを攻撃し、アケメネス朝が滅亡したことで、イランの広い領土における文学と学問の状況は変化しました。アレクサンダー大王はイランを支配した後、イランの学術的な書物や文学書の中で気に入った書物の全てを、ギリシャ語に翻訳するよう命じました。その後、彼はその原本をそのほかのイランの文学書や学術書とともに処分してしまいました。確かに、アレクサンダー大王はこの行為により人権に対する罪を犯しましたが、それによりイランの学問が衰退することはありませんでした。それは、多くのイラン人の学者や文学者、思想家の存在とイランの領域の広がりに注目し、イランの偉人たちはこの危機を乗り越え、あらゆる学問分野において多くの作品を記し、当時における傑出した存在となっていたからです。

イランの人々はサーサーン朝時代、非常に高い水準の学問、文明、文化を持っており、彼らの名声と作品は世界各地で知られていました。この時代の繁栄は非常に隆盛を極めており、多くの研究者や思想家の考えでは、世界最大の学問的な運動だったイスラム文明やその学問的な運動にも影響を与えたとされています。

イランの詩と文学は数千年の歴史を持っており、そのほかの当時の芸術や学問とともに、この時代に成熟し、繁栄しました。イランの古い文学で現存するものは、当時広く使われていたパフラヴィー語やアヴェスター語、アラム語で記されていました。イラン人がイスラム教を受け入れたことによって、ペルシャ語とその文字が広く使われるようになったのです。

イスラム流入後のペルシャ語による詩と文学の繁栄は、9世紀後半のサーマーン朝時代の成立以降に始まり、この時代にはペルシャ語文学にとって好都合な下地が整ったと言えます。なぜなら、サーマーン朝の一族はイラン系であり、イラン文化を盛り立て、ペルシャ語を普及させることに力を注ぎ、詩人や作家、翻訳家の活動を奨励していたからです。

サーマーン朝の支配者たちは政治的、文化的な立場の強化に力を注ぎ、国民的な気運がイラン北東部で高まり始め、学術的、文化的な運動が盛んになっていました。ちょうどその頃、ペルシャ語詩人の父と呼ばれるルーダキーが、現在のウズベキスタン東部・サマルカンド近郊の山すその村、ルーダクで生まれました。ルーダキーの生誕日については、記録が残っていませんが、およそ9世紀ごろに出生したと推測することができます。

ルーダキーと同じ時期に出生したイランの偉人には、医学者のザカリヤー・ラーズィーと哲学者のファーラービーの2人がいます。歴史の点からも、彼の出生した時期はイスラム世界が中央アジアのアムダリア川流域から現在のスペイン・アンダルシア地方にまで広がっていた時期に当たります。

ルーダキーの人生や受けた教育、そしてサマルカンドから現在のウズベキスタン南部にあるブハラに来た経緯については、よくわかっていません。12世紀から13世紀にかけてのイランの作家、アウフィーはルーダキーの生涯について、著作の中で記述しており、「彼は少年期から大変聡明であり、8歳でコーランをすべて暗記してしまうほど記憶力がよかった」としています。ルーダキーはまた、少年期から詩作をはじめ、大変美しい声を持ち、チャングと呼ばれる竪琴を巧みに演奏したとされています。

ルーダキーは当時、詩や音楽において巨匠とされていました。演奏技術の高さと詩の朗読がすばらしいという名声はあらゆる場所に知れ渡り、当時のイラン北東部・ホラーサーン地方の長官、アミール・ナスル・サーマーニーはルーダキーを召抱えようと、宮廷に呼び寄せました。ルーダキーの時代、そして11世紀ごろまで、イランにおいては詩と音楽は密接に結びついており、音楽なしで詩を読むことはありませんでした。音楽を知らない詩人は、自分の詩を広めるため、そして自分が賞賛する相手である王や為政者に注目を惹きつけるため、音楽を演奏する「ラーヴィー」と呼ばれる人物を雇い入れていました。しかし、ルーダキーは当時の詩人に必要とされたこの2つの芸術に、完全な形で精通していました。このため、彼は自作の詩を吟じながら、音楽をも演奏していたのです。

ルーダキーの詩を見ると、彼の知的レベルをうかがうことができます。ペルシャ語の語彙の使い方が大変巧みであることは、ルーダキーの優れた点の一つであり、殆ど全てのペルシャ語辞典には、単語の使用例としてルーダキーの詩が引用されています。

ルーダキーの詩が示しているその他の点は、彼がアラビア語の詩に通じており、イスラム以前のイランの歴史や古典文学に傾倒し、様々な民族や宗教にも造詣が深かったことです。ルーダキーは、サーマーン朝の宮廷に入った後、この王朝の2代目の王アミール・ナスル・サーマーニーの側近となり、サーマーン朝の一族、特にナスルを賞賛する詩を作っており、多くの富と恩恵を手にしました。ルーダキーは宮廷生活を送っていた時代、サーマーン朝の宰相をつとめていた学者のアボルファズル・バルアミーといった偉人たちと知り合い、10世紀の詩人で哲学者のバルヒーやアボルハサン・モラーディーなどと親交を結びました。

アブーイスハーク・ジューイバーリーやバルヒーは、ルーダキーとまさに同時代の詩人であり、彼は自作の詩においてこの2人の詩人に触れています。ルーダキーは、富を有していた人物でしたが、それは詩と音楽により獲得したものでした。複数の記録によると、ナスル・サーマーニーの宮廷における彼の富と栄誉は、ほかの詩人のそれと比べ物にならないほど大きなものでした。しかし、ルーダキーは老齢と盲目により、晩年は苦労し、西暦940年、サマルカンドで死去しました。

一部の作家や研究者の記述は、ルーダキーが吟じた詩の対句の数を130万以上としています。この数は表面的な数と考えられますが、ルーダキーの詩人としての能力や『ケリーレとディムネ』のような壮大な物語を韻文化したことに注目すると、この数は決して事実とかけ離れたものではありません。しかし、今日まで残っている対句の数は、わずか960のみとなっており、それらは古い書物によって伝えられています。そして、その一部は散発的に手記や雑録、辞書の中に出てきています。

ルーダキーの作品として残っている限られた数の韻文や叙情詩から、彼が詩のさまざまな技法における巨匠であることが伺えます。研究者によれば、ルーダキーの詩における比喩表現や描写、そしてその意味する内容が自然に近いことは他に例がなく、おそらくこのために当時の多くの詩人や、彼の後の時代の人々が、ルーダキーのように詩を吟じたい、或いは自分の詩に彼の対句を入れたいと考えていた、とされています。

また、多くの研究者は、現在ごく一部しか残っていないルーダキーの作品の中で最も重要なものは、韻文による『ケリーレとディムネ』だと考えています。この作品は動物の言葉による、インドの物語を集めたものです。この本の原典は『パンチャタントラ』と呼ばれており、サーサーン朝時代にボルズゥーイェというイランの著名な医師によりイランに持ち込まれ、パフラヴィー語に翻訳されました。その後アブッドラー・ビン・ムカッファがこれをアラビア語に翻訳しました。

ナスル・サーマーニーの治世に、彼の命により、『ケリーレとディムネ』は宰相のバルアミーによってペルシャの1種であるダリー語に翻訳され、その後ルーダキーがナスル・サーマーニーの命令によりこの本を韻文化しました。これまでに、彼の吟じた韻文によるこの物語のうち、115の対句のみが伝えられており、その最初には次のように記されています。

過去から何も学ばない者は、

師からも学ぶことはない

現世に人々が溢れる限り

これらの人々は全て知識を必要としている

知とは心を照らす灯りであり

あなたを全ての悪から守ってくれる

現存するルーダキーの韻文から、『ケリーレとディムネ』のほか、6つの作品が残っていることが明らかになっています。

 

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