9月 24, 2019 13:36 Asia/Tokyo
  • ナスィーロッディーン・トゥースィー
    ナスィーロッディーン・トゥースィー

ハージェ・ナスィーロッディーン・トゥースィーは西暦1201年にあたるイスラム暦597年、イラン北東部のトゥースに生まれ、コーランやイスラム法学や原理を父の下で、その後おじのヌーロッディーン・ムハンマドの下でイスラムの伝承・ハディースや論理学や哲学を学びました。その後彼は、学問を修めるために、当時イスラム世界の学問の中心の1つとみなされていたイラン北東部のネイシャーブールに赴き、当時の一般的な学問のすべてにおいて頭角を現しました。

モンゴルがホラーサーン地方に侵攻していた時期、トゥースィーはイスマーイール派のとりでに行き、多くの著作を記しました。モンゴルのフラグ・ハンはイランを攻撃し、イスマーイール派の統治を終わらせると、トゥースィーを召抱え、彼を宰相に選びました。フラグがイラクのバグダッドを平定した後、トゥースィーは大規模な図書館と、数学などを教える教育機関を併設した天文観測所をイラン北西部のマラーゲに建設しました。彼は当時の一般的な学問全般、とりわけイスラム法学、哲学、修辞学、論理学、数学、天文学や倫理学に精通しており、これらのほとんどの分野における彼の貴重な著作は今もなお残っています。

ユークリッド幾何学の原則に関するトゥースィーの解説は、私たちが完全に参照できる最も重要な著作です。ユークリッドとして知られるエウクレイデスはギリシャの数学者で、彼の著作はアッバース朝時代に、数人の翻訳者の努力によりギリシャ語からアラビア語に翻訳されました。トゥースィーはこの翻訳を元に、幾何学の原理を解説し、新たな著作を記しました。この本は13本の論文による13部構成で、後に2部が付け加えられました。第1部から第6部は平面幾何学、第7部から第10部は計算や数の特性、第11部から第13部は立体幾何学について、それぞれ扱っています。アメリカの歴史家サートゥンは、学問の歴史に関する著作の中で、トゥースィーのこの解説書は、エウクレイデスに忠実であることから、数百年にわたり、数学者の間で名声を博した、と述べています。

トゥースィーの最も有名な著作の1つである天文図『イルハン天文表』は、ペルシャ語で記されています。この書は、観測により得られた天体の星の動きや状態を記した天文学の書物です。トゥースィーは天文観測の終了後、その成果をこの天文図に記しています。この天文図は4つの論文が含まれています。ひとつは歴史の説明、2つ目は星の運行とその位置、3つ目は時刻の認識、最後はそのほかの天文学関連の事柄です。トゥースィーはこの本の序文で、モンゴルのチンギス・ハンやその子孫について述べ、天文観測所の着工がイスラム暦657年、西暦でいうところの1259年頃だったとしています。この天文図には、信頼性のある説明がいくつも述べられています。

『ナーセルの倫理書』は、現在のホラーサーン州南部のゴヘスターンの為政者だった、ナーセロッディーン・ムフタシャムの要請により、ペルシャ語で記された哲学、倫理の書です。この本は倫理や実践的な哲学に関する、最も充実した内容のペルシャ語の書籍です。この学問の要点は、自らの内面や性格の浄化、家庭の運営、政治、といったものであり、哲学者はこれらの事柄のいずれについても著作を残しています。しかし、トゥースィーはこの本の中でそれらすべてを集め、この書物の最初の部分において、東洋哲学のテーマの中のうちでも、内容をよりよく理解するために必要な事柄を、最もよい形で記しています。

トゥースィーは、医学に関する著作を数多く残しています。しかし基本的に、トゥースィーは数学や天文学、論理学、哲学を研究していたことから、医学には関心を寄せていませんでした。彼は、医学の大家だったゴトブッディーン・マスリーから医学を、イランの哲学者ファハルッディーン・ラーズィーの弟子筋から哲学を学び、彼の下でイブン・スィーナーの『医学典範』を学んだと見られています。彼は、医学においては総合的に、ザカリヤー・ラーズィー、アフワーズィー、イブン・スィーナーといった医学の先駆者たちと同じような見解を持っていました。彼は自分より以前の医学者や哲学者、つまりイブン・スィーナーやラーズィーのように、医療施設で患者の治療に当たることはなく、天文学や数学、哲学など、そのほかの学問により強い関心を持っていました。

トゥースィーはアラビア語でも、ペルシャ語でも詩を作っていました。後世のほとんどの作家や歴史家は、トゥースィーを詩人と見なしています。トゥースィーは文学において適格な批評を行う人物で、彼は当時の優れた詩人とみなされており、アスィーロッディーン・ウーマーニーやホマーム・ タブリーズィーのような弟子も有していました。彼はほとんどのイラン人の学者がアラビア語で学術書を執筆していた時代に、ペルシャ語の貴重な著作を残したことで、ペルシャ語の言語や文学に価値ある貢献を行なっています。

トゥースィーが、他の学者より優れていた点は、彼の言葉の雄弁さです。彼は、モンゴル時代の作家とは逆に平易で流麗な言葉を使用しており、彼の執筆した作品からは彼が当時の散文形式に完全に精通していたことが伺えます。彼の文学や詩における技法についても扱っている彼の著作としては、『引用の基本』と『詩人の基準』などを指摘することができます。この『詩人の基準』は、西暦1251年から1252年にあたるイスラム暦649年に記された詩の技法に関する本です。有名な『引用の基本』も、論理学におけるトゥースィーの貴重な著作で、これは642年、西暦で言うと1254年から1255年にペルシャ語で記述されました。この著作は9章から構成され、詩の技法については9章で述べられています。『引用の基本』は論理学や哲学について関するイブン・スィーナーの『治癒の書』の次に重要な書籍となっています。

トゥースィーの著作で、神学に関してもっとも重要な著作に、『信仰の概念』があります。この著作は最も重要な書籍のうちのひとつで、信仰原理に関する内容の濃い書籍です。トゥースィーはこの序文の中で、次のように記しています。「私は、本書を最高の方法に基づいて執筆した。そして論拠により私の中で固定されたものや、私が信仰しているものについて記した。この本は6つのテーマに整理されている。ひとつは通俗性、2つ目は表明と顕現、3つ目は創造者の証明とその性質、4つ目は神託、5つ目はイマーム性、6つ目は来世とその証明となっている」 この本は記した当時から名声を博し、多くの学者がこの説明に関する賛否を唱えました。

トゥースィーは、神秘主義に関する著書『高潔な特質』を記したことで、神秘主義哲学者として安定した地位を築きました。彼は、この著書をイルハン朝の学者ジュワイニーのために記し、この中で最後の審判や楽園、地獄について、神秘主義的な形式で説明しました。さらに、トゥースィーの別の著作『開始と終焉』にも、創世と終末、最後の審判、楽園と地獄について、神秘主義的な形式で書かれています。

トゥースィーはイスラム法学、地学、地質学、解釈学、教育学、音楽に関しても貴重な書籍を記しています。

 

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