ルーダキー(2)
ルーダキーは西暦の9世紀半ばごろ、現在のウズベキスタンにあたり、当時はイランの広大な領土の一部だった、サマルカンド近郊の山すそのルーダク村に出生しました。彼の生涯や学歴に関しては、それほど資料が存在しません。彼はまた莫大な行数の詩を詠みましたが、現存するのはわずか960の対句のみです。そのうちの115は、寓話詩『ケリーレとディムネ』の韻文で、彼はサーマーン朝の君主、アブーナスル・サーマーニーの命によりこの寓話を韻文化しました。
ドイツの東洋学者パウル・ホルンは、アラビアンナイトとして知られる『千夜一夜物語』の一部「シンドバッドの物語」に関するルーダキーの詩の一部について触れています。「シンドバッドの物語」は『ケリーレとディムネ』と同じように、表向きにはサーサーン朝時代イランに持ち込まれ、イランの古い言語であるパフラヴィー語に翻訳されました。現存する韻文によると、ルーダキーは「シンドバッドの物語」を韻文化し、その後16世紀ごろに散文化されました。ルーダキーは「シンドバッドの物語」を『ケリレとディムネ』を韻文化した際の形式でしたためており、その一部は現存しています。
そのほか、ルーダキーの詩で現存しているものの中には、頌詩や抒情詩、哀歌などがあります。過去から伝わる詩によると、頌詩はイランの詩における最古のジャンルで、詩に関する調査の中では、昔の詩人は通常、頌詩を重視していました。このため、頌詩を詠む詩人は特別な地位を有しており、この中でルーダキーは、頌詩における巨匠とみなされています。それは、そのほかの偉大な頌詩詩人が彼を巨匠と認め、自身を彼の追従者や弟子とするほどなのです。かれの言葉は誇張がなく、最終的にシンプルなスタイルに落ち着いています。
そのほか、ルーダキーが興味を持っていた詩のジャンルに、ガザルつまり抒情詩があります。抒情詩は常にイランの偉大な詩人の代表作となっており、彼らは皆、抒情詩を作ってきました。ペルシャ語による詩が作り始められてから1000年以上経っていますが、いまだにルーダキーは数多い抒情詩人の中でも優れた抒情詩の作者の一人とされています。彼の表現は非常に美しく明瞭で、影響力がありながら、非常にシンプルで口語的な比喩を用いています。
私が死に行くとき、
それは、あなたに会えない悲しみのためだった
私のそばに来たとき、あなたは私にこう言う、
私のせいであなたは死んだ、私は今後悔している
ルーダキーの現存する詩の中には、哀歌も見られます。ルーダキー以前の哀歌は、現代には残っていません。ルーダキーの前の時代の詩人の哀歌がどの位の水準に達していたのかを伺うことができますが、現存しているルーダキーの哀歌は、彼がこのジャンルに通じていたことを物語っています。ルーダキーは、殉教した詩人で、自分の友人でもあったバルヒーに哀歌を歌い、この上ない簡潔な言葉で、彼の学術的、精神的な偉大さを賞賛しています。
殉教者のキャラバンが横切る
それを見たとき、思いにふける
見たところは一つの体に二つの瞳を有する
されどその叡智は数千の賢者に勝る
この詩は老人の口調で、友を失った悲しみを詠んでいます。当時から長い歳月がたっても、愛する人々を失った人々の心情を物語っており、また今日では学術的、文学的に偉大な人物が死去した場合、この歌が詠まれます。
これまでにお話ししましたように、ルーダキーは数多くの詩を作りましたが、そのうち現存するのは960句のみです。一方、この点に注目すると、いずれの研究者や評論家も、この数少ない詩に基づいてルーダキーの思想に関する完全に正しい判断を行なうことはできず、彼の思考体系を再現することもできません。しかし、現存するこれらの詩から、ルーダキーは哲学的な詩人であることが明らかになっています。彼の詩は、哲学の恩恵を受けているということがはっきりと示されています。彼は、自らの頌詩の中で、叡智の道を探求する文学者、説教者、賢者、法学者という名目で、自らに語りかけています。
ルーダキーの詩で現存するものの中には、賢明さや学術、愛を求める傾向や、無常の世の中、幸福の思想や、何に幸福があるかといった考えかたが内包されています。スペインの詩人ミゲル・デ・ウナムーノは、次のように述べています。「一遍の詩には、2つの旋律が存在していなければならない。1つは、この世が無常であること、もうひとつは愛である」 現世における無常観と、無限であることや創造主なる神への愛情は、これにより生活を真新しさで満たし、永久性を持たせようという気持ちを、世界の人々の心に湧き立たせるのです。
もしルーダキーの詩がさらに多く残されていたなら、おそらく彼の詩におけるこの2つのテーマについてより詳しくお話できたと思われます。しかし、現存するこれらのわずかな詩からも、ルーダキーが現世における無常観と死に関して、真剣に考えていたことが伺えます。
ルーダキーは現世を夢にたとえています。また、現世における夢や幻想は確固たる現実ではなく、現世も夢のように、まさに儚いものです。この内容を語るルーダキーの詩の中の効果的な語調から、彼が哲学者のように心の奥底から自らの思想や感情を語っていることが分かります。
この清らかな世界は、眠りのようであり
心は目覚めていると認識し
悪いことではなくよいことを
悲しみではなく喜びを
この世に永遠にとどまることの意味はあるのか
すべては移ろい行くもの
ルーダキーは哀歌の中で、こうした哲学的な捉え方をしており、常に現世における無常観と、命の儚さを語っています。彼は愛によってのみ、儚い現世を克服できると考えています。彼の現存する詩には、2つの種類の愛があります、ひとつは現世的な、フィジカルな愛で、もうひとつは学識のある自由な人間の特性である、本質的で崇高な愛です。崇高な愛は詩人の芸術的な本質から生まれたものであり、実際、これが理由でルーダキーは時代を経ても文学の愛好家の注目を集めているのです。この愛はまさに、神秘主義における洗練された崇高な愛と非常に似通っています。
ルーダキーが注目していたそのほかのテーマには、幸福があります。ルーダキーの詩を見ると、彼が人間の運命や、人生の目的、幸福という問題などを考えていたことが分かります。彼は幸福になり、喜びに満ちた生活をおくることができるためには、次の4つの事柄が必要だとしています。それによると、健康であること、よい性格を持つこと、賢明であること、善行を行うことであるということです。ルーダキーの詩を見ると、彼自身がこの言葉を生活の中で実践しており、健康に、そして喜びとともに生活を送っていたことが読み取れるのです。
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