山一証券破たんから25年 日本経済・社会の傷、癒えぬまま四半世紀
1997年に当時の大手証券会社・山一証券が自主廃業を発表してから、24日で25年が経ちました。
山一証券は1897年に創業。戦後の高度成長の波に乗り、日本を代表する大企業を数多く顧客に持ち、野村、大和、日興と並ぶ四大証券のトップと言われるほどにまで成長します。
しかし、成長の陰で、顧客に利回り保証をして株を売る「にぎり」と呼ばれる違法行為が常態化。バブル崩壊で株価がはじけると、その利回り保証が含み損として重くのしかかるようになります。
当時の経営陣は、ペーパーカンパニーを設立して含み損を転嫁し、自社の帳簿に表れないように見せかける「とばし」という違法行為に手を染め始めます。
1997年8月に社長に就任した野沢正平氏は、こうした簿外債務の存在を就任後に始めて知らされ、銀行や当時の大蔵省に支援を要請します。しかし、もはや外部からの支援で再建が望める段階ではなく、自主廃業を余儀なくされます。
11月24日、野沢社長は記者会見を開き、山一証券の自主廃業を発表。簿外債務が1500億円超に上ることを明らかにしました。(最終的に2600億円)
この会見で野沢社長が涙ながらに社員への支援を訴えた光景は、メディアで大きく取り上げられ、いわゆる平成不況を象徴する映像となりました。
山一証券の破たんは、日本の経済・社会に今日まで続く影響をもたらしました。
当時、バブル崩壊からの景気回復をめざして政財あげて「金融ビッグバン」と呼ばれる規制改革が謳われていました。しかし、山一証券破たんの前週には、北海道拓殖銀行が日本の都市銀行として初めて経営破たんし、それまで絶対潰れないと言われていた銀行・金融業界への信頼が大きく揺らぎました。
また企業全体に対しても、就職すれば一生安泰という高度成長期からの前提が崩れ、人々の間で自分の生活は自分で守るといった自己責任論が台頭していきます。
特に1997年以降からの不況は就職氷河期をもたらし、当時の大卒の多くが非正規雇用とならざるを得なくなりましたが、こうした問題も自己責任論の風潮でまともな支援論議がされてきませんでした。
こうした若者が正規雇用の機会を得られないまま現在に至り、中高年の非正規雇用として深刻な問題になっています。
また企業に採用された社員たちの中にも、年功序列から成果主義へといったスローガンのもと、上がらない給料のまま激務を押し付けられ、心身を病んだり、自殺に追い込まれたりする人も数多くいます。
規制緩和、コストカット、非正規… 山一破たん後、「生き残り」と称して進められた変革は、四半世紀を経た今、逆に日本社会の存続を危うくする問題として重くのしかかっています。