イスラエルの植民地主義的計画を完全に無くさなければならない理由
(last modified Mon, 12 Aug 2024 05:17:35 GMT )
8月 12, 2024 14:17 Asia/Tokyo
  • イスラエルの植民地主義的計画を完全に無くさなければならない理由
    イスラエルの植民地主義的計画を完全に無くさなければならない理由

歴史を見返しても、植民主義者が外圧や被支配者から強制されることなしにその支配を止めた例はほとんどありません。したがって、植民地主義者による継続的にエスカレートする暴力を防ぐ唯一かつ正しい方法は、内外から強い圧力をかけることだと言えます。

【ParsToday西アジア】植民地支配からの解放は歴史の中で常に暴力と隣り合わせであり、植民地主義の帝国が小さな島々を明け渡したような数少ないケースを除いて、合意に基づく非暴力的なかたちで行われることはありませんでした。そこから、パレスチナ・イスラム抵抗運動ハマス、シオニスト政権イスラエル、そして両者に対し世界で取られているさまざまな立ち位置について議論するには、シオニズムという民族主義の植民地的性質を理解し、パレスチナ人の抵抗運動が反植民地主義的な闘争であるという認識を持つ必要があります。

この記事では、この問題をめぐるいくつかの側面を議論していきます。

 

アメリカおよび他の西側諸国の政府がシオニズムという思想が生まれてより無視し続けてきたジェノサイドという問題について振り返ってみれば、パレスチナで行われているこのような暴力は、19世紀後半にシオニズムが拡大し入植による植民地化という一大計画になったことが、その根源にあったと分かります。

なぜならシオニズムは、他の入植による植民地化計画と同様、先住民の排除を求めるものだったからです。植民地主義者らは、排除が暴力でも叶えられなかった場合、それを解決すべくさらに数倍の暴力を用います。そのため、この計画にある先住民への暴力を終わらせることができる唯一のシナリオは、計画の崩壊のみと言えるでしょう。

 

知識論から始まった暴力によるパレスチナ人排除

現代パレスチナが1882年から2000年にかけて受けてきた暴力の歴史には、注目すべき点があります。このような暴力行為は、1882年に最初のシオニスト入植者の一団がパレスチナに到着したことで始まったのではありません。入植者の暴力は、シオニストらのパレスチナ到着前から、暴力によるパレスチナ人排除という知識論として、彼らのイメージ、願望、文章の中で生まれていました。これを端的に表しているのが、シオニズムのスローガンとなっていた「土地なき民に民なき土地を(A land without a people for a people without a land)」という考えです。シオニストらはその実践を、1918年にイギリスがパレスチナを占領するまで待ちました。そしてその数年後となる1920年代半ばに、イギリス政府の支援を受けながら11の村で民族浄化を行ったのです。

 

ユダヤ人にのみ仕事を与える戦略

ここまでは、パレスチナ人を排除するために行われた最初の組織的暴力について説明してきましたが、暴力は別のかたちでも存在しました。それは、パレスチナ人を労働市場から追い出すことを目的とした、ユダヤ人のみに仕事を与える戦略です。この戦略および民族浄化によって、パレスチナ人は父祖の地から強制的に移住させられましたが、仕事や適切な住居は当然得られませんでした。

 

ユダヤ教施設建設とパレスチナ人の蜂起

これらの暴力行為に加えて1929年、エルサレムのハラム・アル・シャリフに3番目のユダヤ教施設を建設する話が出たことで、パレスチナ人は初めて暴力による反撃という行動に出ました。それは、事前に計画されたものではなく、パレスチナの地でシオニストらが行う植民地化の苦い結果に対する絶望感から突発的に取られたものでした。パレスチナ人はさらにその7年後、イギリスがより多くのユダヤ教徒の入植を許可したことを受け、より組織立った運動を開始しました。1936年から1939年まで3年間続いたこの蜂起は、パレスチナ独立戦争もしくはパレスチナ・アラブ反乱と呼ばれることになりましたが、パレスチナのエリート層はこの時ようやく、シオニズムがパレスチナおよびその国民の存在を脅かすものだと認識することになりました。

 

「防衛」という名の武装集団

インティファーダの鎮圧においてイギリス軍に協力した非正規のシオニスト武装集団の主要な一団の名称は、ヘブライ語で「防衛」を意味する「ハガナー」というものでした。イスラエル政権はさらに、パレスチナ人に対してあらゆる攻撃的行動に出ましたが、そらら全ての攻撃は正当防衛だとされました。そのような考え方は、イスラエル政権の軍の名称にも見ることができます。

イギリス委任統治下の時代から現在に至るまで、このような軍事力は、土地や市場を掌握するのに利用されてきました。軍隊は反植民地運動に従事するパレスチナ人からの攻撃を防ぐために配備され、この点でシオニストらは、19世紀および20世紀の他の植民地主義者と何ら違いはありませんでした。

 

暴力の被害者たるパレスチナ人を、テロリストとして刷り込む

植民地主義が終わった現代の歴史ではほとんどの場合、植民地主義者の行動は防衛ではなく侵略と見なされます。しかしシオニシストらは、自身の侵略を防衛だとし、パレスチナ人による武装闘争をテロとして認識させることで、大きな成功を収めました。イギリス政府は、少なくとも1948年以前には双方の暴力行為をテロリズムとみなしていましたが、1948年にはシオニストらによるパレスチナ民族浄化の第一段階を目撃したにもかかわらず反応を見せず、以降も、パレスチナ人に対して行われる最悪レベルの暴力行為を容認し続けています。

イギリスがまだ委任統治を行っていた1947年12月から1948年5月にかけて、シオニストの武装集団はパレスチナの主要都市およびその周辺の村々を破壊しましたが、それらは基本的に、単純なテロを超える人道に対しての犯罪でした。 1948年5月から12月にかけての民族浄化の第2段階では、パレスチナが過去数世紀に経験した中でも最もすさまじい暴力により、パレスチナ人の半数が強制的に土地を追われた上、村落の約半分と大半の街が破壊されました。

このように、歴史に見られる現代パレスチナの暴力は、19世紀後半のシオニズム思想の拡大および、それが入植による植民地計画となったことが根源となっています。歴史上、植民主義者が外圧や被支配者からの強制なしにその支配を止めた例がほとんどないことは事実であり、彼らの野蛮さに対峙して暴力を防ぎその植民地計画を止めさせる最も良い方法は、内外からの強い圧力であることが示されています。

シオニストの計画は、パレスチナ人の土地を掌握すべく2世紀にわたり行われている、壮大な植民主義的計画でもあるのです。

 

引用元:

Ilan Pappe, 2024, To stop the century-long genocide in Palestine, uproot the source of all violence: Zionism, The new Arab.

 


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