西側の犯罪を振り返る|東京が火の海と化した夜:米国は爆撃で数万人を焼殺
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東京大空襲での犠牲者ら
第2次世界大戦末期に発生した東京大空襲は、歴史上最大かつ最も破壊的な空爆の一つと考えられています。
【ParsToday国際】第2次世界大戦中末期に当たる1945年3月9日から10日にかけての夜に行われた東京大空襲での「ミーティングハウス作戦」は、歴史上最大規模かつ最も破壊的な空爆の一つとされています。この空襲では、279機のアメリカ軍B-29爆撃機が東京上空に現れ、人々が寝静まっている夜の街に約1700トンのM69焼夷弾(ナパーム弾)を投下しました。この空襲は、1944年6月に始まった日本への空襲の強化を目的としていました。初期の空襲でアメリカの計画に含まれていたのは、日本の工業施設を狙った精密爆撃でした。
しかし、これらの攻撃は総合的にはそれほど奏功しませんでした。これに対し、アメリカ空軍の戦術変更を決定したのが、対日爆撃作戦の指揮を執っていたカーティス・ルメイ司令官でした。彼は、精密爆撃を広域無差別爆撃(絨毯爆撃)と通常爆撃に切り替えたのです。ルメイ司令官は、乾燥した風の強い天候となることから、3月9日の夜から10日の早朝にかけての時期を選び、「ミーティング・ハウス作戦」を実行しました。これにより、東京の木造建築物全体に火が効果的に燃え広がる下地がそろう形となったのです。
ミーティング・ハウス作戦による空爆の主な標的となったのは、東京の下町の人口密集地域に立ち並ぶ、主に木造住宅でした。焼夷弾の大量使用により制御不能な大規模火災が発生し、最終的には10万人以上が死亡した他、推定100万人が負傷しました。しかもそのほとんどを民間人が占め、人類史上最も破壊的な空爆となりました。
アメリカ軍によるこの空襲は東京の約4.6平方キロメートルにも及ぶ区域を破壊し、人的犠牲者数の点で史上最悪の空襲とされています。この空襲は迅速で、致命的かつ残忍でした。目撃証言によれば、木造家屋から畳、人や動物に至るまで、東京のほぼ全域が焼け落ちました。当時8歳で、この空襲で生き残った二瓶治代さんは2020年、米CNNのインタビューで当時を回想し、「母親に背負われた赤ん坊が背中で燃えていた」と語っています。
焼け焦げた人肉の臭いは非常に強烈で、アメリカの爆撃機パイロットは嘔吐を防ぐために酸素マスクの装着を迫られていました。歴史の記録には、水の中に避難した人々が熱により生きたまま茹で上がった様子が詳しく記されています。また、火災から逃れようとした群衆に押しつぶされた人々もいました。大半の人々は、火災による一酸化炭素中毒および酸素不足で命を落としています。
この戦災が及ぼした人的被害は計り知れないものでした。数え切れないほど多くの家族が焼死した他、子供や高齢者が炎に巻き込まれ、東京の街は火の海と化しました。目撃者の証言は、多数の焼け焦げた遺体と悲惨な光景を伝えています。この空襲事件は単なる軍事攻撃ではなく、日本国民に深刻な精神的・社会的影響を与えた大量殺戮と言うべきものでした。多くの生存者は、その後の人生においてこの戦災による身体的・精神的影響に苦しみ続けることとなったのです。
アメリカは、戦争の終結を早め、日本国民の士気をくじく必要性を理由にこの攻撃を正当化していました。またその論拠として、都市破壊および、心理的圧力により日本政府が降伏に追い込まれるだろうとの主張がなされています。しかし、この論理は法的にも道義的にも決して正当化できません。それは、政治的圧力の手段として民間人を標的にすることが、無辜の民に対するテロと暴力の明白な例であることによります。多くの歴史家や戦後分析家は、東京大空襲が人的被害の点では広島と長崎への原爆投下よりももっと恐ろしいものであったと強調しています。
広島では原爆の爆発の瞬間に約7万人が亡くなりましたが、東京大空襲では死者数は10万人を超え、街の大部分が灰燼に帰しました。ルメイ司令官は後になって東京大空襲の残虐性を認めましたが、それでも自らの決断を正当なものだったとして擁護しています。ルメイ司令官はあるインタビューでも「当時、日本人を殺すことはそれほど苦にならなかった。もし我々が戦争に負けていたら、私は戦争犯罪人として裁かれていただろう」と語っています。なお、ルメイ司令官は第2次世界大戦終結後、英雄として称えられ、引き続き米軍に勤務しました。
2002年3月9日には、戦禍のもっとも大きかった東京都江東区に、東京大空襲・戦災資料センターが「東京空襲を記録する会」により開設されました。この戦争博物館は小規模ながらも、壊滅的な空襲を追悼し、犠牲者に哀悼の意を表すことを目的としています。
「ミーティング・ハウス作戦」は、国際法と戦争倫理の観点から重大な戦争犯罪とみなされています。戦争法の基本原則、特にハーグ条約と国際慣習は、民間人の直接攻撃の禁止を強調しています。しかし東京大空襲においては、軍事・産業標的を狙った精密攻撃とは対照的に、都市インフラの広範な破壊と住民のパニック誘発を目的に「広域無差別爆撃」方針が採用されました。
戦略的な視点から見て、東京をはじめとする日本の都市への焼夷弾による爆撃により、日本の工業生産は著しく低下し、軍事力は弱体化しました。しかし根本的な問題は、この軍事的成果が民間人の大量虐殺を正当化できるかどうかにあります。もちろん、多くの法律家や歴史家の答えは「ノー」です。彼らは、戦時下であっても人道的原則は遵守されるべきであり、またいかなる軍事目的でも民間人の虐殺を正当化できないと考えています。そのため、一部の研究者はこの攻撃を20世紀の主要な戦争犯罪の一つに数えています。
結局、東京大空襲は20世紀最大の戦争犯罪の一つとみなされる必要があります。この攻撃は数千人もの無辜の民を殺戮したとともに、人道と国際法の基本原則を侵害したことになるのです。

