ペルシャ湾、永遠に残るその名称―ペルシャ湾の日に寄せて
イランでは、一部の記念日が特別な重要性を帯びていますが、そのうちの1つはイラン暦オルディーベヘシュト月10日に当たる4月30日の「ペルシャ湾の日」です。
この日が制定されたのは、イラン国民にとってペルシャ湾が重要な存在であり、また戦略的に重要な航路の1つとして、地域的、世界的に重要な位置づけにあることによります。
ペルシャ湾は、その名称とともに、非常に古い歴史を持っており、一部の人々の間では、世界の文明の揺りかご、或いは人類の発祥地であると考えられています。この地域に居住していた古代の人々は、舟を造って他の地域に渡航した最初の人々であり、イラン人は事実上、世界初の船乗りだったのです。
ペルシャ湾の地理的な特徴
ペルシャ湾の北部沿岸は、全てイラン領です。ペルシャ湾の西側にはイラクとクウェートがあり、南岸はサウジアラビアやカタール、バーレーン、アラブ首長国連邦、オマーンが存在します。ペルシャ湾の総面積は24万平方キロにも及び、メキシコ湾、カナダのハドソン湾について、世界で3番目に大きな湾とされています。また、全長は約900キロ、幅はおよそ240キロとなっています。
イランは、ペルシャ湾の海岸線全体の大部分に相当する800キロの海岸線を有しています。ペルシャ湾は、水深が浅く、この湾全体の平均の水深は50メートルにも満たず、最も深いところで水深はおよそ100メートルほどです。この湾は、ホルモズ海峡を経由してオマーン海やその他の国際海域へとつながっており、この湾に浮かぶイラン領の島々で特に重要なものはハールク島、アブー・ムーサー島、大トンブ島、小トンブ島、キーシュ島、ゲシュム島、そしてラーヴァーン島です。
ペルシャ湾とホルモズ海峡の重要性
ペルシャ湾が重要であることから、ホルモズ海峡も世界で最も重要な海峡となっています。ホルモズ海峡は、全長158キロ、幅は56キロから180キロとされ、世界で2番目に船舶の航行の多い海峡となっています。1日あたり、タンカーで運搬される原油全体のほぼ40%、世界の原油供給量全体の25%近くに相当する、およそ1650万バレルから1700万バレルの原油が、この海峡を通過しています。
ペルシャ湾がどれほど重要な存在であるかは、世界で確認されている石油と天然ガスの埋蔵量全体のおよそ68%が、この湾の海底とペルシャ湾岸諸国に集中していることを考えれば、十分理解できると思われます。ソ連の崩壊後、多くの地域がその重要性を失いましたが、その中で唯一重要性が増してきた地域がペルシャ湾です。このため、世界の超大国を自称するアメリカは、ペルシャ湾の覇権を追求する行動に出ました。石油と天然ガスを世界経済の循環における血液に例えるなら、アメリカ政府はペルシャ湾の覇権を手に入れることは事実上、世界経済の動脈を掌握することだと考えているのです。
ペルシャ湾の名称変更を試みたアラブ諸国
近年、西側諸国に従属する一部のアラブ諸国は、西側諸国と連携してイラン排斥に向け、ペルシャ湾の名をアラビア湾に変更させるため、政治やメディアのレベルでの大規模な行動を開始しました。彼らは国際機関、さらには学術界のレベルで、ペルシャ湾という名称に代えて、アラビア湾という偽りの呼称を使おうとしています。ところが、イランの政府と国民が政界やメディア、そしてインターネット上で、これに反対したことから、この湾の正式名称をペルシャ湾からアラビア湾に変更するという、アラブ諸国の試みは阻止されました。
古代ギリシャの書物に見るペルシャ湾の名称とその歴史
人類の歴史が記録されるようになり、古代において地理学が一種の学問として研究されるようになった時以来、ペルシャ湾は4つの海のうちの1つとして知られていました。このため、アケメネス朝のダーリウーシュ大王が碑文の中で、パールスの海について語るよりも遥か前の時代に、イラン人以外の人々も、この広い海域をパールスという名称で認識していたのです。また、ペルシャ湾でのイラン人の航海は、ダーリウーシュ大王の時代、即ち紀元前500年に始まりました。
ヘロドトスやクテシアス、クセノフォン、ストラボンといった紀元前のギリシャ人の歴史家や地理学者の記録によれば、この海域をパールスと呼び、またイランの地をパールセ、パルサーイ、そしてペルシャ人の国或いは都市を意味するペルセポリスと呼んだ初めての国民はギリシア人だったということです。アレクサンドロス大王に仕えたマケドニアの将軍ネアルコスは、紀元前326年にアレクサンドロス大王の命により、インダス川を渡ってオマーン海とペルシャ湾を舟で航行し、その湾口まで進みました。
地理学の父とよばれる古代ギリシャの歴史家ヘカタイオスは、紀元前475年にパールスの海という呼び名を使用しています。ヘロドトスやクセノフォンの話では、古代の地図ではこの海はパールスの海と見なされていたということです。2世紀のギリシャの著名な数学者で地理学者のプトレマイオスは、ラテン語により執筆した『地理学』という著作において、やはりそこに記した地図でもスィヌス・ペルシクス、つまりペルシャの海という意味の名称で呼んでいます。
紀元1世紀のローマ人の歴史家クイントゥス・ルーフスは、この海をパールス海と読んでいました。ラテン語で書かれた地理学書ではイラン南部の海域、即ち現在のペルシャ湾とマクラーン海は、ペルシャの海といった意味の名前で記されています。また、英語、ドイツ語、フランス語、トルコ語など様々な言語で編集、出版されている辞書においても、ペルシャ湾という名称が使用されています。さらに、アラビア語の著作のうち、世界で最も有名な百科事典の1つは、決定的な参考資料であり、ペルシャ湾という呼称を使用しています。
新名称の登場とイランの反発、およびアラブ諸国の対抗
アラビア湾という間違った名称は、イギリス人の外交官により初めて使用されました。30年以上に渡りペルシャ湾でのイギリス政府の政治代表を務めたチャールズ・ベルグレイヴは、ロンドンに戻った後の1966年に、ペルシャ湾の南岸に関する著作を出版し、ここで初めてアラビア湾という間違った名前を使っています。
ベルグレイヴは、自著の中で、アラブ人たちはペルシャ湾をアラビア湾と呼びたがっていると主張しています。この著作が出版された直後、アラビア語の出版物では『アラビア湾』という名称が使用され始め、その後しばらくしてからはペルシャ湾の南岸にあるアラブ諸国の正式な文書でも、ペルシャ湾の代わりにアラビア湾という呼び方が使用されるようになりました。
イラン政府は当時、こうした曖昧な呼び方に対して反応を示し、その結果、同国の税関や郵便局は、アラビア湾と表記されている積荷や郵便物の受け入れを停止しました。また、国際会議や学会においても、アラブ諸国の代表がアラビア湾という名前を用いた場合には反応を示しています。このとき、一部のアラブ諸国は莫大な石油収入の一部を、外国に駐在する政治代表に委ね、外国の出版物を買収して、ペルシャ湾ではなく、アラビア湾というな呼び方を普及させようとした経緯があります。
1979年のイラン・イスラム革命の勝利により、西側諸国に従属するアラブ諸国の政府は、この革命に対する怨恨や敵対から、より大規模にアラビア湾という名称を使用しました。西側諸国の政府も、政界やメディアの多くにおいて、この偽りの呼称を使用し、或いはペルシャ湾ではなく、単に「湾」という用語を使用しています。
国連の反応
1990年代の初めには、国連の文書にアラビア湾の呼称が使用されていることに対し、国連のイラン代表が立て続けに抗議したことから、国連の校正委員長はこの組織の職員に対し、イラン政府による抗議を常に考慮するよう求めました。実際に、ペルシャ湾は歴史的に古くから使われている名称であり、歴史の初めからこの湾に対してつけられている呼称です。この湾の名称の変更のために行われた努力は、これらの地域諸国の間の対立を引き起こすためのものでしかなかったのです。
さらに、ジャン・ジャック・プリーニは『ペルシャ湾』という著作において、次のように述べています。「数多くの国の国民や民族がペルシャ湾岸地域を征服し、統治してきた。だが、彼らの時代も終わった。自らの賢明さと勇敢さにより、この地に生き続け、統治による遺産をこれまで保持してきたのは、パールスの人々だけなのだ」