7月 10, 2022 00:00 Asia/Tokyo
  • イスラム暦ゼルハッジャ月10日の犠牲祭
    イスラム暦ゼルハッジャ月10日の犠牲祭

10日日曜は、イスラム暦ゼルハッジャ月10日、即ちイスラムの重要な祝祭の1つである犠牲祭の日に当たります。この日は、神に従うことへの情熱に溢れた人々にとって喜びの日です。

今回は犠牲祭に因み、メッカ巡礼の儀式において生贄をささげるその背景についてお話しすることにいたしましょう。

 

原則的に、イスラム文化における祝祭は精神的な喜びを伴うものであり、こうした日々には神に近づく機会が生まれます。犠牲祭もまた、人間が神のもとに近づく喜びの日です。サウジアラビアの聖地メッカの近くにあるメナーではこの日、メッカ巡礼の後半の儀式が行われ、唯一神信仰の預言者であるイブラーヒームの美しい言葉を唱える人々の姿が見られます。この時、この儀式に参加する巡礼者たちは、コーラン第6章、アル・アンアーム章「家畜」、第79節にある、次の節を唱えます。

"私は、天と地を創られた方に自らの顔を向けて、純粋に信仰する。私は多神教徒の仲間ではない"。

この日メッカ巡礼を行なう人は、“ハージ”の称号を与えられます。この日彼らは全ての瞬間、神の恵みで満たされます。私達も慈悲深い神に向かって高く両手を掲げ、祈祷を捧げ、神に罪の赦しと憐れみ、今後の幸福をこう願います。

「神よ、この精神性溢れる大いなる日にかけて、悪意を抱く者たちの陰謀にはまったイスラム教徒の地に平和と安寧を取り戻したまえ」

犠牲祭

 

イスラム暦ゼルハッジャ月の10日、メッカ巡礼の儀式は重要な段階へと入り、巡礼者たちは全身でもう1つの精神的な経験をします。この聖地で瞑想にふける一連の儀式を済ませた後、今度はメナーの地に集まるのです。巡礼者たちはこの場所で、犠牲祭の前夜に集めておいた石を悪魔のシンボルである柱に向かって投げつけます。これは、成長を妨げる悪魔のささやきを遠ざけることを意味します。この儀式はメナーにおいて3回繰り返されます。犠牲祭の日のもう1つの主要な儀式は、羊やウシ、ラクダを生贄にすることです。この日に生贄を捧げることは、愛する神の道における自己犠牲、唯一神に対する服従を意味します。犠牲祭の日に行なわれるこうした儀式は、預言者イブラーヒームの逸話に由来します。

預言者イブラーヒームは、既に年を重ねていました。彼は無知や迷信との戦いに満ちた100年の人生を過ごした後、その偉大な使命が終わりつつあったとき、息子を持ちたいと考えました。ですが、彼の妻サーラーは子どもに恵まれなかったのです。預言者イブラーヒームは深く渇望しました。すると、神は預言者イブラーヒームを憐れみ、妻サーラーの女奴隷で黒人の女性に男の子を授けました。預言者イブラーヒームはこの男の子をイスマーイールと名づけました。イスマーイールは、預言者イブラーヒームにとって単なる1人息子ではなく、一生を終えるに当たって待ち望んだ存在であり、100年に渡る苦労の報酬、そして波乱万丈の人生の結実でもありました。イスマーイールは、預言者イブラーヒームにとって非常に大切な存在でした。預言者イブラーヒームは若木を育てる庭師のようにイスマーイールを育てたのです。あらゆる困難や危険を乗り越えてきた、預言者イブラーヒームの長い人生において、その日々はイスマーイールを授かったことによる喜びに溢れ、過ぎていきました。イスマーイールは、父親がその誕生を100年も待ち続けた息子だったのです。イスマーイールは立派な青年に成長していました。そのような折、預言者イブラーヒームは突然、夢の中で次のような神のお告げを聞いたのです。

「イブラーヒームよ、お前の息子のイスマーイールを生贄にして、私に捧げなさい」

このお告げは何度も繰り返されました。神に忠誠を誓う僕である預言者イブラーヒームは、これまでの長い人生の中で初めて恐れのあまり震え上がりました。しかし、それは紛れもなく神の命令であり、預言者イブラーヒームは大変困難な試練を与えられたことを悟りました。預言者イブラーヒームは神から授かった使命の長い道のりの終焉に際して、重大な岐路に立たされていました。しかし、彼は遂に意を決して、次のように叫んだのです。

「イスマーイールよ、神から、お前を生贄にして捧げるよう命じられた。これは、神の命令だ」 

しかし、預言者イブラーヒームの心中には、イスマーイールを持つ喜びに代わって、彼を失うことによる悲しみが広がっていました。イスマーイールへの愛着に悪魔の誘惑も加わって、預言者イブラーヒームは大いにためらい、それゆえに彼はこの神に命令を実行せずにおくこともできたはずでした。しかし、預言者イブラーヒームは賢明になって、心の中のためらいを克服し、悪魔のささやきを払いのけて神とその命令に従う決心をしたのです。即ち、彼が選んだのは本当の神の僕になるために、自分の大切なものを犠牲にするという選択肢でした。イスマーイールも、神の命令に忠実に従いました。彼は、事の経緯を知ったとき、父である預言者イブラーヒームに向かって、神の命に従うよう求めました。コーラン第37章、アッ・サーファート章「整列者」第102節には次のように述べられています。

"父よ、与えられた使命を実行してください。神の望みにより、私は忍耐強い人間の1人となるでしょう"

 

こうして、預言者イブラーヒームと息子のイスマーイールにより、神への服従という最高の舞台が整いました。イブラーヒームは、生贄を捧げる場所にイスマーイールを連れて行き、鋭い刃物をイスマーイールの喉に向かって押し付けました。しかし、どうしたことでしょう。この刃物は一向にイスマーイールの喉を切り裂きません。預言者イブラーヒームは何度も同じ事を試みましたが無駄でした。それは、神が別のことを望んでいたからです。この時、次のような神の声が聞こえてきました。

"イブラーヒームよ、神はイスマーイールを生贄にせずともよいと仰っている。神はここに1頭の羊をもたらした。イスマーイールの代わりにこの羊を生贄にするがよい。汝は神の命を果たしたのだ"

こうして、預言者イブラーヒームはこの厳しい試練を見事に潜り抜けました。この出来事を称えて、神は毎年ハッジ巡礼の折に、メッカ巡礼者がメナーの谷において預言者イブラーヒームに倣い、象徴的な儀式という形で悪魔と戦うことを取り決めたのです。

こうして、メッカ巡礼者は悪魔のシンボルである柱に向かって石を投じ、自分の内面と外面の敵を追い払います。続いて、家畜を生贄にする儀式を行ないます。家畜を生贄にすることは、人間が神に従うという壮麗な舞台を思い起こさせるものであり、自分の内面的な欲求を振り払うという行動を生贄の儀式によって表すのです。これについて、神はコーラン第22章、アル・ハッジ章「巡礼」第37節において次のように述べています。

"この家畜の血や肉が、神に届くなどと考えてはならない。神が注目しているのは、あなた方の禁欲である。神は、あなた方が敬虔な道を歩み、1人の人間として完成度を高め、神にさらに近づくことを望んでおられる"

カアバ神殿とそれに向かって巡礼するイスラム教徒

 

現在、メッカ巡礼者は自らを預言者イブラーヒームの立場に置いています。人々はそれぞれ、自分のこだわりに注目し、神の方向を向き、自分の向上を妨げる要素を振り切ります。この日、メッカ巡礼者は自分の心の中のイスマーイール、即ち自分が現世に執着するもの全てを犠牲にします。犠牲祭の日、メッカ巡礼者は犠牲祭の儀式を執り行うことで、改めて自分の内面に潜む欲求と闘います。この儀式のもう1つの重要な秘密は、神の道において自らの欲求を捨てることに関して人々が試されているということです。犠牲祭は人間が人生の中で怠惰や無為に陥る一方で、人間として最も素晴らしい性質を身に付け得るということを示しています。実際、人間性という壮麗さや精神の向上こそが祝祭なのであり、人々は喜びに達するのです。

 

犠牲祭の日に巡礼者が行なうべき最後の儀式は、男性は頭髪をそり落とし、また女性は頭髪をある程度短くし、爪を切ることです。メッカ巡礼者はこの日、自分の内面を教育するための最も華やかな歩みを進め、神の命への満足を自己献身や服従の美しい形で示します。彼らは表面的な美しさや名誉の全てを振り捨て、頭髪を剃りまたは短くすることで、他の巡礼者とともに再びメッカを訪れる準備を整え、自らの精神を清めるのです。メッカ巡礼を済ませた人々は、“ハージ”という称号を与えられ、メナーに短期間滞在してからカアバ神殿の周囲を回る儀式のため、再びメッカへと戻ります。そして、メッカ巡礼という恩恵を授かったことを神に感謝し、互いに祝福の言葉を述べます。

犠牲祭の日、ハージの称号を与えられた人々は、預言者イブラーヒームとその息子イスマーイールといった偉大な人物のように、神の満足のために自らの内面的な欲求を振り捨てることができたのはこの上なく美しいことだという事実を悟るのです。そして今、巡礼者たちは精神的な価値あるたくわえを手に帰国の途につき、メッカ巡礼で学んだ事柄をその後の人生において活かしていくことになるのです。

 


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