イラン、多様な民族文化
イランには様々な文化を持った民族が生活しています。
ファールス、ロル、クルド、トルコ系アーザリー、バフティヤーリー、トルコ系ガシュガーヴィー、ラク、アラブ、トルクメン、バルーチ、ターレシー、アルメニア、アッシリアといった民族です。どの民族も独自の風俗習慣、文化を持っています。民族的、宗教的な祝祭や儀式、結婚式、民族的な競技、民謡、民族音楽は常に旅行者や研究者の注目を集めてきました。
イランは、多様な民族文化を有しています。大衆文化の研究は、人類学の観点から非常に大きな重要性を有しています。なぜなら、各民族の文化や慣習については実際、書物や論文の中に記録されている数倍以上のものが存在するからです。大衆の中には、物語や格言、民謡などが語り継がれており、それぞれが大きな教訓を含んでいるか、あるいは先人達の道徳や社会、政治、精神性を物語る確かな資料となっています。

現在、世界には民族の生活スタイルを調査、研究したりしている人々がいます。このため、民族の歴史、政治、社会的な価値、名声は、イランを魅力あふれる国にしています。この番組では、こうした魅力の一部をご紹介いたします。
イラン高原は、気候の多様性により、昔から、様々な民族や人種が生活する場所となってきました。紀元前数千年から、文明や文化を有しているこの地の民族は注目を集めてきましたが、紀元前3000年期以降にアーリア人が移住してきたことで、土着の民族は新たにこの地にやって来た人々の生活様式に慣れることができなかったり、その中に変化を生じさせたり、あるいは別の地域に移住したりしました。
ルルビ族やゴート族、エラム人などは、アーリア人が移住してくる前に、現在のイラン高原に暮らしていた重要な民族でした。ルルビ族はとゴート族はザグロス山脈で生活していました。エラム人もまたイラン高原の南西部、現在のフーゼスターン州が位置する場所に暮らしていました。ルルビ族とゴート族の生活については、山岳地帯での生活が彼らを山岳地帯に住む最も忍耐強い民族にしているとされていますが、メソポタミア文明の隣接地域であったことは明らかに、彼らの中に新たな特徴を生じさせ、彼らは農業や商品の物々交換といった経済活動に多くの関心を示していました。
エラム人も文化や精神性の多くを体現している民族のひとつでした。フーゼスターン州のアフワーズ北西部にある小さな町、シューシュはエラム人の国家の中心として、他の民族と関係をつなぐための場所でした。これらの民族とメソポタミア文明、特にシュメール人との関係、そして建築や書道の採用、近隣の勢力との商業関係の確立といったものは、彼らにそれらを習得しようとする民族を受け入れさせました。
紀元前3000年期、アーリア人がシベリア平原の近くの、ユーラシア大陸のある地域での大寒波により、自分たちの土地を去ることを余儀なくされました。アーリア人は3つの段階に分かれて移住しました。アーリア人の移住者は、イラン土着の民族とは異なり、定住になれておらず、恒常的に移動していました。
アーリア人は、イランに住むすべての民族を服従させたり、あるいはその土地から追い出したりしました。この集団が地理的に特別な地域で居住地を見つけたことは、イランの国家形成に向けた下地を整えました。その結果、彼らはメディア王国、アケメネス朝、パルティア帝国、サーサーン朝を生じさせました。
イランの初期の歴史を経て、新たな信条を持った新たな民族がこの土地に入ってきて、時の経過により、自らの居場所を固めました。7世紀にイスラムがイランに入ってきたことで、アラブ民族もまたこの地に向かい、イラン南西部の地域に移り住みました。こうして新たな信条の文化が古代イランに広まっていた思想に取って代わりました。
後にウマイヤ朝とアッバース朝のカリフの指示により、9世紀からあるグループがイランに入ってきました。彼らはトランスオキシアナのトルコ系の民族で、歴史のある時期に、イランの政府を担っていました。ガズニー、セルジューク、ハーラズムシャーの各王朝からガージャール朝まで、トルコ系の民族が政府を形成しており、彼らの祖先は主に9世紀以降に入ってきたトルコ系民族でした。
概して様々な民族がこの地に入り、各時代において、政府や王朝を形成し、長期に渡りこの地を統治し、影響を及ぼしました。そしてこれらの民族は長い時を経て、この地の文化を形成しました。