10月 26, 2016 15:55 Asia/Tokyo
  • 世界で輝かしい服飾の歴史を有しているイラン

服飾とその物質的、精神的な象徴について紐解くことは、その社会の人々の文化的、社会的な行動を知るためのひとつの方法です。イランは、古い文明と共に、世界でも輝かしい服飾の歴史を有しています。

これまで、イランの服飾の歴史を見ていく中で、イスラム教が現れた時代に至り、服飾に関するイスラムの教えや指示についてお話ししました。

 

イスラムは、当時の世界の様々な民族をひきつけ、イスラムの芸術と文化の名のもとに、単一の芸術と文化を創り出しました。ドイツの東洋学者によれば、イスラムが理想とする文化的な統一は、必然的に、芸術的な独創性や領域を含むものでした。イスラム的な芸術と文明は、それぞれの国で独自の道を歩みました。

 

イランは、イスラムの国のひとつでしたが、それまでのイランの伝統や芸術、文化から離れることはありませんでした。イランのイスラム教徒の芸術家たちは、民族的な芸術や文化を正しく利用するとともに、イスラム文化・芸術の形成や変化にも貢献しました。実際、真の融合が見られ、表面的には大きな変化がなかったものの、時の経過と共に、広大な範囲に広がっていきました。そのため、一部の人々は、「イスラム初期、イランの民族の服装には大きな変化はなかったが、服装の芸術的な本質やイスラム的な要素の利用が、次第に、イランの服装の中にも見られるようになり、特徴のひとつとなった」と考えています。

 

アラブと他の国々の文化的な融合の中で注目に値する点の一つは、人々がイスラム教徒となった国々の文明や文化、芸術の象徴が利用されたことです。イランでは、イスラム以前、貴族や位の高い人々は、服装や住まい、召使いの使用などの点で他の階層の人々よりも恵まれた立場にありました。つまり、この階層の男性は、こうした特徴によって見分けられ、女性たちも、絹の衣服や帽子によって区別されていました。

 

イランでは、紡績業が発達していたため、イスラム教徒のアラブ人たちは、少しずつ、彼らが知っていたものよりも優れた衣服が手に入ることに気づくようになりました。彼らはすぐさま、イスラム領土に、絹織物を生産する作業場を作り、イランの布をモデルにしました。特に、サーサーン朝とビザンツ帝国では、こうした作業場を統合し、発展させました。

 

エジプトのコプト人の織物芸術も、このようにして発展しました。絹織物の生産によって、為政者に支払う税金が増えました。また、こうした生産物の一部は、宮廷や他国の代表者への贈り物にもなっていました。

 

イスラム以前のアラブ人は、ズボンや上着を身につけておらず、長いマントのようなものを使用していました。彼らは、ズボンや上着、それも絹製のものを身につけることを、イラン人から学びました。預言者ムハンマドが、導きを開始した頃、アラブの民族は偶像を崇拝しており、乾燥したアラビア半島の各地で質素な暮らしを送っていました。預言者とその教友たちにとって、力を示すことには何の価値もなく、そのため預言者は、質素な服装と生活により、世界の人々 にそのように質素に生きることを説いていました。イスラムの預言者ムハンマドは、絹製の高価なシャツを着ること、金の飾りを身につけることを男性たちに禁じていました。また、絹製の長い衣服を禁じ、地面にひきずるような服は、高慢さのしるしだと語っていました。

 

一部の為政者たちは、このような宗教的な指示や預言者の勧めに従わない衣服を身につけていました。歴史的な言い伝えや書物によれば、預言者が亡くなった後、一部の人々が絹の服を身につけ、その後、他の人々も、それを真似て高価な衣服を身につけるようになりました。特に、ウマイヤ朝時代にはこのような慣習が為政者たちによって広められました。ウマイヤ朝の為政者、ムーアウィヤとヤズィードは、華やかな衣服を着るようになった最初の人物でした。彼らはイラン人やローマ人にならい、派手な柄の絹のシャツを身につけていました。

 

アラブ人の服装は、彼らが他国、特にイランの文明の象徴をどのように利用し、どれほどの影響を受けていたかを示すものです。630年頃、為政者は白いズボンと綿製のシャツを身につけていました。そのシャツは白や赤で、えりやポケットはありませんでした。また彼らは、長い上着を着ていました。彼らは頭にも、黒や白のターバンのようなものを巻き、足物はブーツやサンダルをひものついた靴を履いていました。ウマイヤ朝の為政者も、そのような服を身につけていましたが、足元には、より高価な布製の靴や良質の革靴を履いていました。

 

この時代の女性たちは、スカートや幅の広いズボン、袖の着いた膝丈のシャツ、その上に袖のない丈の短いシャツを着ていました。これはおそらく、イランの女性たちの服装を真似たものです。上に着るシャツはボタンがついており、ベルトとショールで装飾されていました。また全身を覆う黒い色のチャードルをその上にまとっていました。歴史によれば、イスラム以前、アラブの偶像崇拝の女性たちは体を覆う布を身につけておらず、イスラムが広まった後、コーランの指示に従って、それが義務付けられるようになりました。コーランの節には、体を覆う衣服を身につける必要性がはっきりと述べられており、イスラム教徒の女性は、その利用が義務付けられています。

 

このように、ウマイヤ朝の時代、男女の衣服はほとんどが、サーサーン朝時代をモデルにしたものでした。さらに、女性的なスカートやズボンも現れました。イスラムの土地の宮殿にある偶像を見ると、為政者の服装は、当時の強大な帝国の力を示すものとなっています。例えば、8世紀のものとされるヨルダンの宮殿の壁画には、世界の王たちの肖像がありますが、彼らはビザンツ帝国のマントを身につけています。また、テヘラン南方の町レイの近郊にある漆喰細工は、正装したサーサーン朝の王が描かれています。