7月 19, 2017 20:29 Asia/Tokyo
  • イランにおける知識生産活動
    イランにおける知識生産活動

この時間は、イスラム初期のイスラム文明の繁栄と学術的な栄光についてお話しましょう。

前回の番組では、イスラムの教えにおいて、知識や学問は、神の知識と信仰にいたるための手段であり、暗闇から解放されるための光であると共に、迷いの原因にもなりえる、ということをお話ししました。言い換えれば、知識や学問は、諸刃の剣であり、個人や社会の幸福に貢献するのと同時に、その堕落の原因にもなるのです。

 

イスラムでは、個人や集団の現世と来世の幸福に貢献する真の知識とは、有益な知識であり、それは神に近づくことを目的とし、社会のニーズを満たすために得られるものだとされています。そのため、このような考え方は、イスラム社会における現代科学と宗教学の逆説を退け、人々の現世と来世のニーズを満たすために必要なあらゆる学問や知識を、有益なものと見なしています。

 

イスラム教徒の学術・研究活動に溢れた歴史を疑う人はほとんどいません。この分野で研究を行ってきた全ての人が、イスラム教徒は8世紀から11世紀にかけて目覚しい発展を遂げ、当時のあらゆる学問の領域において最も活躍したと考えています。そのような蓄積により、十字軍戦争などを通して、ヨーロッパでルネサンスが起こり、中世の暗黒の時代が終わりました。イランの優れたイスラム研究者のモタッハリー師は、「人間と運命」という本の中で、次のように記しています。

 

「イスラム教徒が驚異的な栄誉と誇りの時代を過ごしてきたことに疑いの余地はない。なぜなら彼らは、世界中で大きな運動や変化をもたらし、壮麗な文明を築いたからだ。それは幾世紀も続き、人類のともし火となった。イスラム文明は現在、人類文明のひとつと見なされ、文明の歴史は、その存在を誇っている」

 

ウマイヤ朝時代、イスラム領土では知識や学問はほとんど存在しませんでした。しかし、アッバース朝時代に少しずつ、学術活動のための舞台が開かれていきました。それからまもなく、イスラム教徒の知識や学問が、イスラム世界全体に広がりました。イスラム教徒の統治者・カリフのマンスールは、中央統治を確立した後、学者たちを自分のもとに招きました。

 

初期アッバース朝時代の名家、バルマキ家の一族は、インドや中国、トランスオキシアナの文化遺産をバグダッドに運び、カリフの治療のためにバグダッドにやって来ていたジョンディシャープール病院の院長が、哲学、医学、教育制度などのイランの文化の一部を持ち込み、イスラム世界にもたらしました。

 

アッバース朝のカリフ、ハールーン・アッラシードは、ギリシャの偉人たちの書物を集めるよう指示しました。息子のマームーンは、学者たちを集め、奨励することに努め、「知恵の館」と呼ばれる図書館をバグダッドに設立し、その後も天文台を建設しました。この時期、ユダヤ教徒、キリスト教徒、ヒンズー教徒、ゾロアスター教徒、イスラム教徒の学者が学術会合を開き、思想的な遺産を、ギリシャ語、シリア語、サンスクリット語、中世ペルシャ語からアラビア語で伝えようとしました。

 

アッバース朝時代にイスラム教徒が思想的な発展を遂げた要因のひとつは、学術や哲学に関する書物がアラビア語に翻訳されたことにありました。さまざまな言語からのアラビア語への翻訳は、知恵の館をはじめとする学術機関によって真剣に行われ、10世紀から11世紀半ばまで続けられました。

 

ハールーンとマームーンは、さまざまな学問に関して多くの本を翻訳させたり、編集させたりしました。これによって、古い時代の世界のほとんどの学術的な作品が、イスラム教徒の学者の手に渡ることになり、学者たちは、自分の情報や経験と共に、それらを活用することで、学問の発展に向け、大きな歩みを踏み出しました。その流れの結果、10世紀から11世紀半ばに、イスラム文明が開化、繁栄したのです。この時期、それぞれの学問の領域において、最も偉大なイスラム法学者たちが生まれました。

 

イスラム文明の黄金期の知識や学問の根が、イスラムやイスラム教徒の中にあるのか、それとも外国から取り入れたものなのかについては、見解が分かれています。一部の東洋学者たちは、イスラム教徒は、ギリシャ、イラン、シリア、インドなどの学術書を翻訳すると共に、情報を手に入れ、その後、文化的な交流を通じて、それらがヨーロッパに伝わっていったと考えています。彼らは特に、ギリシャ文明の遺産の重要性を強調しており、イスラム教徒がこの遺産を伝え、そこにほとんど変更は加えられなかったとしています。

 

こうした中、一部の知識や学問は、イスラム教徒が古代ギリシャから受け取り、明かりを保ち続けたまま、ヨーロッパ人に委ねられた聖火のようだと言われています。

 

イスラム初期は、2つの理由から、イスラム文明の黄金期と呼ばれています。一つ目の理由は、この時期、イスラム政府は、富と権力、文化や知識の点で、高い地位にあったからです。二つ目の理由は、イスラムの学問の多くが、この時期に発展、拡大し、多くの学問がアラビア語に翻訳されたためでした。

 

このような学術的な繁栄の結果、イスラム教徒の学者によって学問が分類されました。彼らは、さまざまな学問をイスラム学とそれ以外の学問に分けました。イスラム学には、コーランの朗誦、解釈、ハディース、イスラム法学、原則、教義、スーフィズムなどがあり、それ以外の学問には、数学、天文学、物理学、医学、錬金術、哲学、歴史、地理、文学などがあります。

 

ハールーン・アッラシードの後、母親も妻もイラン人であったその息子のマームーンは、イスラム法学者や天文学者を奨励し、バグダッドに知恵の館と呼ばれる図書館を設立しました。

 

歴史的に見ると、さまざまな学問の発展と開花におけるイスラムの優れた役割は明らかです。西側の文明は、イスラム教徒の学術的な貢献に負っています。その主張を裏付けるのが、最初の病院が、707年にワリード・イブン・アブドルマリクの指示によって建設されたことです。その後、その他の都市にも病院が設置され、秩序正しく管理されました。ここでは、国籍、宗教、職業に関係なく、すべての患者が細心の治療を受けていたのです。

 

最大の病院は、1284年にエジプトのカイロに設立されました。この病院はおよそ8000人の患者を受け入れ、専門的な医師が揃っていました。この病院には、事務所、薬局、倉庫、礼拝所、図書館、議事堂などの施設が備えてありました。また、化学はイスラム教徒の間でよく知られ、ジャーベル・イブン・ハヤーンの作品は注目に値するものでした。ジャーベル・イブン・ハヤーンは、化学に関して大きな発見を手にし、化学の父と呼ばれています。製薬の分野でも大きな発展が見られ、貴重な書物が編纂されました。

 

イスラム文明の歴史を見ると、この文明が、ギリシャの遺産を崩壊から守っただけでなく、それに新たな秩序を与えたことが分かります。イスラム文明は、8世紀から10世紀、11世紀にかけて、学術の拡大と成長の点で輝かしい持代にあり、知識や学問を世界の別の場所、特に中世ヨーロッパの影響を受けた圧政的な世界に伝える要素となりました。

 

900年から1200年までのイスラム文明の黄金期は、イスラム教徒の学問の最盛期にあたり、医学、植物学、数学、化学、物理学などの学問が、注目に値する発展を遂げました。この時期、イスラム教徒と中国人は、学問の戦略に関して互いに競い合っており、キリスト教徒のヨーロッパ人は、非常に遅れていました。その後、イスラム文明の衰亡期が始まりました。その時代については、次回のこの番組でお話しする予定です。

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