メディア時代のイランの服飾(1)
メディア時代のイランの服飾について説明します。
メディア人とパールス(ペルシア)人は、アーリア系民族であり、気候のよい地域に住んでいました。しかし、突然氷河期が訪れたため、ほかの土地への移住を余儀なくされ、あるいは温かい衣服を使用していました。遊牧民である彼らは、シュメール人やアッシリア人、エラム人とは完全に異なる衣服を着用していました。メディア人やパールス人の最大の特徴は、騎馬民族として弓矢を使用することでした。このため、紀元前10世紀から8世紀ごろのものとされる遺跡で発見された、これらの諸民族の衣服の多くは戦闘服となっています。当時の土器のデザインにも、丈の短いタイトなズボンを履き、かぶとをかぶった勇壮な男性の姿が見られます。さらに、円筒形の印章にも、かぶとを被り矢筒を持ち、戦闘服を着用して戦う、あるいは狩猟を行う男性がデザインされていました。
多くの研究者は、イラン人が世界の軍事史上初めて騎馬兵を生み出した民族であると考えており、これが主な理由となって彼らは数々の戦争で勝利を収めました。メディア人は、馬の飼育を重視し、独自の馬術を有していた初のイラン民族であり、このためにメディア人の男性の衣服は、馬に乗るのに都合のよいものでなければならなかったのです。服飾史を専門とするイギリスのジェームス・レイバーは、次のように述べています。
「紀元前6世紀のペルシア人は、バビロニア文明を征服した。彼らは寒冷な気候条件のもとに暮らしていたことから、厚手の服を着ていた。しかし、こうした衣服は間もなく、征服された側の民族の衣服であるマントや、襟付きのチュニックにとって代えられた。さらに、彼らはシルクロードを通じてイラン高原に入ってきた中国製の絹や羊毛が手に入る状態にあった。彼らはまた独自の帽子を被る習慣を維持していたが、それは古代ローマではフリジア帽と呼ばれていた。それからおよそ2000年後のフランス革命の際には、革命派の人々が隷従から自由への解放を象徴する、赤い三角帽子としてこの帽子を被っていた。さらに、彼らは先が反り返った長靴のような独自の履物を履いていた。イラン人が考案した最も重要なものはズボンを履く習慣であり、これはその後、彼らの特別な衣服となった。色々な土地の歴史が信用できるものであれば、おそらく女性もズボンを履いていたと思われる」
しかし、アーリア人以外の様々な民族や移住民も存在していたことを忘れてはなりません。各地で発見された彼らの墓からの発掘物は、数千年の歴史を誇る優れた芸術や文明を示しています。しかし、イランはそれよりも前にすでに独自の芸術と文明を有しており、それはメディア人の日常生活用品とされる遺物や芸術作品に見られます。中でも、イラン北西部のハサンルーの丘、テヘランの西方80キロにあるホルディン、イラン中部カーシャーンにあるスィアルクの丘、北部ギーラーン州の町アムラシュ(読み方確認)、中央アジアのアムーダリヤー(オキサス)川、西部クルディスターン州ズィヴィエ(確認)といった地域では、貴重な発掘品が出土しています。それらの出土品に類似性が見られることは、この地域に偉大な文明が存在していたことを示しています。中でも、ズィヴィエでの出土品は、この地域に栄えた文明や芸術はメディア王朝時代の文明と芸術の中で存続していました。
メディア人の服飾は、この芸術と文明の影響を受けた芸術と文明の具現の一例です。イラン北西部ハサンルーの丘で発見された陶器(土器)には、履物の図案が描かれています。この図柄は、メディア人が履いていた先の反り返った履物に非常によく似ており、イランの原住民の文明と移住民であるメディア人文明が相互に影響を及ぼしたことを物語っています。さらに、中央アジアのオキサス川付近で発見された衣服には、人間の図柄が筆で描かれており、これもイラン南部ペルセポリスの壁画に見られるメディア人の衣服に酷似しています。
イランの英雄叙事詩人フェルドウスィーはその詩作の中で、イラン人やオキサス川以北に住むトゥーラーン人、そして悪魔たちの戦いの際の衣服について述べており、彼らの帽子や冠の装飾について説明しています。これらの詩においては、メディア王朝やアケメネス朝、様々な原住民や移住民たちの服装をした、伝説上の英雄や、伝説上の王朝であるピーシュダーディー朝の王たちの間に多くの共通性が見られます。もっとも、イスラム以前の古代イランの王朝時代から残る遺跡や碑文、壁画は全体的に、この地域の古代文明や文化を物語っており、フェルドウスィーの英雄叙事詩『王書』などはこのことを裏付けるものです。
全体的に、アーリア民族の衣服としてイラン高原に入ってきた当初に明白だったのは、2つの種類の服装に集約されます。1つは、非常に単純な形式でデザインされたマントであり、おそらく1枚の長方形の布で作られ、中央で分かれており、ベルトで締めていたと思われます。アケメネス朝時代の人々は、丈の長いこのマントを一重、或いは2枚重ねのスカートとともに着用し、袖やスカートの中央にプリーツをつけていました。また、丈の短いマントも存在しており、メディア人はこれを肩にかけ、長靴やブーツを履いていたのです。
アーリア民族の衣服のもう1つの形式は、丈の短いシャツとタイトなズボンにフェルトの帽子、そして靴とベルトという組み合わせでした。この短いシャツとズボン、そしてフェルトの帽子は、現在も存在しており、イランの一部の集落の住民や部族に見られます。メディア人は、寒くなってくると、これらの衣服にさらに上着を着用しました。これには、袖がついていましたが、ケープのような形で使用されていました。
メディア人にとって、帽子は頭に被って暑さや寒さを防ぐ目的のみならず、おしゃれとしての側面も有しており、特にメディア人がイランを支配していた時代に多く見られました。イラン南部の古都ペルセポリスにある優れた壁画の図案の多くは、メディア人が自らの宗教や所属集団、あるいは民族や人種の特徴を示すために帽子を被っていたことを示しています。
この種の帽子のうち、2つの種類の帽子はメディア人の帽子として知られており、これについては全ての研究者の間で意見が一致しています。そのうちの1つは、ティアレもしくはミトラと呼ばれ、もう1つは頭巾です。ギリシャの哲学者ヘロドトスやプロタゴラスによりますと、ティアラは円錐形の冠のような形で高さがあり、前に出た形で作られ、その後ろにテープのようなものがぶら下がっていたということです。これを被っていたのは、保安官や家来、朝貢使節だったとされています。
頭巾、またはフードと呼ばれる帽子はメディア人、アルメニア人、パルティア人、さらにコーカサス地方の色々な人々の間に広まっており、今なおこれらの人々と同じような民族に属するタタール人、トルクメン人、コサック人の間で使用されています。この種の帽子は、フェルトや綿布で作られ、上の部分が尖っていて円錐形の袋のような形になっています。後ろの部分はいくらか長く延びていて首を覆う仕組みになっており、両側にも覆いがついていて耳を寒さから守るようになっています。フードは、頭から首、こめかみ全体を覆うもので、彫刻や絵画などにもその重要な見本が残されており、戦争や狩猟を行っているイラン人にも見られます。
さらに、メディア人の名残として残っている帽子には、王冠としての役割はありません。もっとも、メディア王朝の王たちがこれを使用していた可能性はかなり高いものの、これに関する有力な資料は存在しません。フェルドウスィーによる英雄叙事詩『王書』は、王たちの服飾について触れており、これは帽子という言葉が出てくる例の多くにおいては、これを冠と解釈できるとされています。
メディア王朝の時代に、宮廷にはご縁のなかった一般の人々は木綿でできた髪留めをルカっていましたが、この古くからの習慣は宮廷に出仕する人々や軍人と一般人との間の階層格差があったことを示しています。メディア人の歴史に関する、ロシアの歴史家ディアクノフの著作には、あるアッシリア人の立体的な挿絵が掲載されており、そのアッシリア人は装飾品と思われる髪留めで額から後頭部にかけて頭髪をきちんと整えているのです。