メディア時代のイランの服飾(2)
前回に引き続き、メディア人の服装について説明します
紀元前1000年紀に、強い寒波が襲ってきたとき、ロシアのウコク高原からイラン高原に入ってきた最後の移住者はメディア人とパールス人でした。18世紀フランスの画家フランソワ・ブーシェは、「西洋の服飾史」という著作において、次のように述べています。「メディア人とパールス人の状況を研究してみると、これらの民族は気候条件のよい地域に住んでいたが、突然寒波がやってきたために他の土地への移住を余儀なくされ、厚手の服を使用していたことが分かる」 また、イギリスの服飾史家ジェイムス・レイバーも、次のように述べています。
「紀元前6世紀のペルシア人は、バビロニア文明を征服した。彼らは寒冷な気候条件のもとに暮らしていたことから、厚手の服を着ていた。しかし、こうした衣服は間もなく、征服された側の民族の衣服であるマントや、襟付きのチュニックにとって代えられた。さらに、彼らはシルクロードを通じてイラン高原に入ってきた中国製の絹や羊毛が手に入る状態にあった」
メディア人は、特に婦人服をはじめとする、アッシリア人の服飾文化の多くを受容し、宮廷内での贅沢や豪華さを極めました。歴史書には、宮廷での盛大な儀式やそこに出入りする数千人もの召使、宮廷人の華やかな服装や彼らの身につけていた宝飾から、彼らがアッシリア人の宮廷を模倣していたことが明らかだと記されています。
メディア人の女性たちも、男性のようにシャツとズボン、頭巾、靴、そしてベルトを使用していました。ギリシャの哲学者クセノフォンは、メディア人の服装は紫色が多かったとしています。もっとも、メディア人の女性の間には他のスタイルの服装が広まっていたことを示す資料も見つかっています。それは、イラン南西部フーゼスターン州の町ベフバハーンで発見された浮き彫りで、質素な服装をした女性たちが描かれています。この浮き彫りは、中エラム時代のものですが、男性と女性の姿やその服装から、これらの服装がアケメネス朝以前のもので、この岩のレリーフに描かれた女性たちは全員、その脇のレリーフに掘り込まれた人物よりも短いスカートをはいています。そのほかのレリーフにも、半そでの服を着た女性たちの姿が描かれており、スカート丈は足首に届いておらず、そのすそには房飾りが見られます。
アメリカの歴史家ウィル・デュラントは、メディア王国時代およびアケメネス朝時代の服装や体を覆う女性の被り物のヘジャーブの役割は傑出しており、世界にヘジャーブが伝播した源はイランであると考え、次のように述べています。
「貧しい女性たちは、働くために人々の間を往来しなければならなかったので、自由を維持することができた。しかし、それ以外の女性については1年のうちの特定の日は人目を避けていなければならなかった。この習慣は継続され、遂には彼女たちの社会生活全般に及んだ。上流階級の女性たちは、垂れ幕で覆われた御輿のようなものに乗らなければ、外出できなかった。彼女たちは決して、公衆の前で男性と話すことは許されなかった。夫のいる女性は、父親や兄弟以外の男性に会うことはできなかった。今なお残る古代イランの絵画においては、女性の顔は見られず、また彼女たちの名前も一切出てこない」
もっとも、ウィル・デュラントのこの見解は、少々現実性に欠けると思われます。というのも、建物に女性が描かれていないからといって、それが当時のイランの女性たちが孤立していたと考える根拠にすることはできないからです。これについて、一部の歴史家は歴史的な史料に注目し、この見解にいくらかの修正を加えた上で、当時の女性たちの生活様式や服装に関する論文を執筆しています。
現存するレリーフをより所とした場合、メディア王国時代の女性たちの服装は、男性の服装と同じであり、男性と女性は頭に被るものの違いにより識別されていたことになります。一般的に、金のピアスやブレスレット、ネックレス、指輪、手袋、髪留めのピンといった装飾品を用いることは、それを身に着ける人の権力や高い地位を示すものとされ、それらの使用は男女の間に広まっていました。さらに、ベルトにつけられた鞘も宝石や貴金属で装飾されており、また女性たちはズボンやスカートのすそに装飾用の鈴をつけていました。
メディア人の女性たちは、金の首飾りやイヤリング、手袋、ブレスレットなどの装飾品を身につけていました。ハサンルー平原をはじめとする各地で発見された装飾品は、紀元前1000年紀のものとされており、当時の女性たちの装飾品の多様性を示しています。
メディア王国時代から残っている証拠資料は、当時の人々の服装の種類に関する重要な点を明らかにすると共に、当時の衣服に使用されている布地の図柄や織物産業をも物語っています。例えば、黄金のレリーフには、1人のメディア人の男性の姿が刻まれています。このレリーフには、丈の長いズボンを履いた人物が祈りを捧げている様子が描かれており、そのズボンには、3羽の鳥の図柄が見られます。これはメディア王国時代に織物産業が発展していたことを示しています。このレリーフは、中央アジアのシルダリヤー川の付近で発見されており、現在は大英帝国博物館に置かれています。
この他、ギリシャの杯やその他の遺物には、イラン人の乗馬服が描かれています。これらの図柄には、ジグザグ模様のズボンを履いて馬に乗ったイラン人が描かれており、これは古代のイランで織物産業が発展していたことを示しています。メディア王国時代の遺跡から発見された木綿や絹製の布地からは、当時すでにさまざまな図柄や繊維品が広まっていたことが分かります。これについて、イラン人研究者のアリー・レザー・ヘクマト博士は、『古代イランにおける教育』という著作において、次のように述べています。
「古代のイラン人は、次第に織物産業の技術を学ぶようになり、メディア王国時代には、この産業自体が1つの学問を形成していた。織物産業におけるこうした発展のプロセスは、イラン人が織物に関する情報や知識を次第に次の世代に伝えていったこと、その品質の良さから、近隣諸国にも多くの買い手が存在したことを物語っている」
各種の衣服を製造する上でのこうした進歩は、軍服においても顕著に現れており、メディア人の軍事力を示す資料の多くは、軍人たちの服装について述べています。紀元前5世紀のギリシャの歴史家ヘロドトスは、次のように述べています。
「メディア王国の王キュアクサレス2世は、初めてオリエントの軍隊を組織化し、軍隊を槍部隊、弓矢部隊、騎馬部隊に分割した初めての人物だった」 ヘロドトスはまた、メディア人やパールス人、また現在のイラン南西部フーゼスターン州の人々の中から選ばれた、アケメネス朝の宮廷内の常駐兵の戦闘服や武具について述べており、さらにメディア人の服装をしていたアケメネス朝のクセルクセス王の軍服と武具について触れています。
ヘロドトスはまた、次のように述べています。「彼らはまた、フェルト製の柔らかい帽子を被り、カラフルな袖つきのチュニックを着ており、魚の鱗のような鉄製の装甲服を着ていた。またズボンをはき、盾を持っていた。その後ろには矢筒が吊り下げられ、短い槍と長い弓、短い矢や短剣を装備していた」